序言 Lời tựa
桂海(クエハイ)は嶺南(リンナム) の地にあり、そこには不思議な山河、霊的な土地、勇敢な人々、神や異人の事跡がいつも存在している。
春秋時代、戦国期の以前、古代からそう遠くない頃、南の人々の風俗は簡素なままで、記録する国史がなく、多くの話が忘れられてしまった。しかし 幸いなことには、失われていない物語は人々の口伝えによって受け継がれた。その後、両漢、三国、東西晋,唐、宋、元、明の時代を経て、嶺南志(リンナムチー)、交州廣記(ザオチャウクアンキー)、交趾略志(ザオチールックチー)などの書が書かれて伝えられ、参考になる多くの本がある。しかし、わがベトナム国は元々が未開発の地であるために、その記載は簡単で大雑把である。
わが国は、フンヴォン(雄王)によって始まり、文明化され、吳朝、丁朝、黎朝、李朝、陳朝を経て現在に至っては規則化されているため、国家の歴史の記録は詳細を極めている。しかし、この嶺南摭怪に書かれている話は史実なのか、いつの時代に書かれたのか、完成させた人物の名前は誰か、それらすべては明らかではない。
最初にこれを書き起こしたのは、李朝、陳朝の博識のある人である。そして、古きを好む博雅の士たちが脚色を行った。愚か者のこの私は、この本の根源を研究し、陳述し、書いた人の意図を推察して明らかにしたいのである。
鴻龐(ホンバン)氏傳を見ると、ベトナム王朝が開かれた理由が明らかになる。夜叉(ザートア)王傳では、占城(チャンパ)の起こりをまとめている。白雉(バックチー)傳は、越裳(ビェットトゥォン)氏の事跡を記し、金龜(ズアバン)傳は安陽王(アンズォンヴォン)の歴史を記している。
南の国で結納における最も大事な物はキンマの他にはなく、(17)それをもって、 夫妻の道義、兄弟愛の意味を示している。南越国の夏には、スイカほど貴重なものはない。この話は自身の宝物によって、主人の恩を顧みない事を語る。
蒸餅(バインチュン)傳は親孝行を祝う。烏雷(オーロイ)傳は、淫行を戒める。
董天王(ドンティエンブォン)は殷(アン)の敵を倒し、李翁仲(リーオンチョン)は匈奴を倒し、南に才能のある人がいる事を知らしめた。褚童子(チュドントゥ)は仙容(ティエンズン)と出会った。崔偉(トォイヴィー)は仙客(仙人)と遭遇し、善と陰を見ることができるようになった。
道行(ダオハイン)、孔路(コンロ)の物語では、父親の仇を取ることが賞賛され、神僧たちは敵を消し去ることができるのか。
魚精(グーティン)傳、狐精(ホーティン)傳では龍君(ロンクァン)に妖怪を追い払う力があることを示している事を忘れることはできない。徴(チュン)姉妹は忠誠を尽くし死んで、神に転生させられ、節烈の旗を高く掲げる。誰がそうでないと言えようか。傘圓(タンビェン)は神聖であり、水族をしりぞけるその美徳は明らかだ。そうではないと誰が言えよう。
ああ、趙武(チェウブー)の後代の南詔(ナムチェウ)は国を失い復讐をした。媚娘(マンヌォン)は木の仏の母親で、干ばつの年に雨を降らせる。蘇瀝(トーリック)は龍肚(ロンド)の地の守り神だ。猖狂(スオンクアン)は栴檀の精で、祭壇を築いて拝むならば、人々に福を与え、一方で術を使う代わりに、人々を危険から救う。この事は奇妙だが不思議ではない。文章は神秘的だが、でたらめではない。多くの話は荒唐無稽の話のようだが、痕跡にはまだいくつかの証拠がある。
善行をすすめ、悪を罰し、虚偽を廃し、真に従し、その風俗を奨励しているではないか。 考えてみるなら、晋代の書「搜神記(そうじんき)」や唐人の書「幽怪錄(ゆうかいろく)」と同様の書である。
ああ!嶺南(リンナム)列伝は、なぜ石に彫られず、竹に刻まれず、口から口へと伝えられたのか。まだ頭の青い子どもから白髪の老人まで、誰もがこれを愛し、賞賛して言い伝えてきた。これを持って戒め、道徳や風習と結びついた。少ない利益ではまったくない。
洪德の仲春、壬子(みずのえね)2月、この愚か者の私は古い話を書き写し、抱き、そして読んだ。字の校正は避けられないと考えて、自分の無知を忘れて修正し、それを2巻にまとめ、「嶺南摭怪(リンナムチッククアイ)列伝」と名付け、閲覧しやすいように自宅で保管した。考証を行い、脚色を行い、話を整理し、文章を校正し、言葉を吟味し、意味を精査し、後世の古きを好む君子たちで、喜んでくれる人がいるかだろうか。ここに序言を記す。
中和節、春
洪徳23年(1492)
武瓊(ブークイン)
付録第14話 ランダム沢の神の伝説
Truyện vị thần ở chằm Lân Đàm
付録の最終話は、優しい神様の少し悲しい話です。
先生に逆らえず、死んでしまった龍神です。
ランダムの神は元は龍神でした。昔、神はしばしば人に姿を変え、道を学ぶ先生をたずねました。先生は不思議に思い、神の居場所を探しに行って、沢の中に隠れているのを見つけました。先生はよくきびしい質問をしました。神は真実を言いました。「今年は天上で雨を降らせないことを決めました。」先生は神に雨を降らせるよう懇願しました。神はしぶしぶ聞き入れました。
沢では気候が変動し、先生は沢に行って、神が硯の中の水を吹いて、干ばつをなくすために雨にしているのを見ました。天帝はその事が暴露されたとして、神を罰しました。神の死体は沢に浮かび、先生はそれを集めて埋葬し、その沢を龍沢(ロンダム)と名付けました。後の時代にランダムになりました。
神は威厳があり霊験あらたかです。この寺院は、タインダム県のランダム村にあります。代々、神は中級神として称号を与えられています。
付録第13話 布擺(ボーバイ)村の神の伝説
Truyện vị thần làng Bố Bái
龍王の妻の不倫の子どもを育てて
一族が助けられる話
昔のベトナムの女性は自由ですね
布擺(ボーバイ)村の神布擺(ボーバイ)は、炎?龍(ビェムロン)の精です。
昔、ハーホン道のハンキェウ村には、ダン家に2人の兄弟がいて、1人はティエンミン、1人はティエンサという名前でした。2人が海に魚を捕りに行くと、木に似ている奇妙な物体がありました。長さは3尺以上、色はカラスの玉子のようで、波の上でゆらゆらと浮いています。兄弟は拾って持ち帰りました。夜になると、突然、物体の中から音が聞こえ、兄弟は怖くなって、すぐに水の流れに投げ捨て、別の船に行って寝てしまいました。
その夜、兄弟が夢を見ると、1人の人が来て言いました。「私は東海龍王(ドンハイロンブオン)の妻で、つい炎?龍王(ビェムロンブオン)と通じてしまい、彼の子どもを産みました。私は東海龍王(ドンハイロンブオン)に知られるのをおそれて、あなたたちに託しました。どうかそれを守って大切にしてください。誰かに傷つけられることがあってはいけません。それが大きくなったら、あなたたちに福があるでしょう。」兄弟がびっくりして目を覚ますと、さっきの木が船といっしょに漂っていて、見て、運んで元に戻しました。
家に着くと、兄弟は布擺(ボーバイ)の地に泊まって休みました。すると木が突然船から地面に飛びうつりました。兄弟は祠を建て、崇拝するために木で像を作り、それを龍君(ロンクァン)と名付けました。
陳(チャン)朝の代に、王は従者を海に潜らせて真珠を探しました。従者は何も見つけることができず、ただダン家の子孫だけがたくさんの真珠を見つける事ができました。従者が理由を聞くと、ダン家の人は昔の話を明らかにしました。従者が王に報告すると、王は儀式と音楽、彫像の行進を行わせました。以来、たくさんの真珠が取れるようになりました。王は、神に報酬を与え、称号を神珠龍君(タンチャウロンクァン)とし、利済?霊通慧信龍君(ロイテーリントンフエティンロンクァン)の地位を授けました。
この寺院はクインコイ県の布擺(ボーバイ)村にあります。寺院の東には、広い墓地があり、元は、昔彫像が作られた場所です。それぞれの王朝を通じて、神はいつも称号を与えられてきました。 今日に至るまで、非常に霊験あらたかです。
付録第12話 仙遊(ティェンズ)県の金の牛の話
Truyện con trâu vàng ở huyện Tiên Du
中国にある仙人の話
+金の水牛の話洪水など自然災害から来ているのでしょうか
むかし、上古の時代、王質(ブォンチャット)という人がいて、山に薪を切りに行って、碁を打っている2人の仙童に出会いました。2人の仙童が質(チャット)にナツメの種を与えると、彼は食べて空腹を感じることがなくなり、斧を置いて碁を打つのを見ま

した。仙童は質(チャット)に言いました。「あなたの斧の柄が粉々に消えてしまったよ。」(鉄の刃は残ったが木の柄は古くなってなくなった)質(チャット)は下を向いていて、顔を上げた時には、もう仙童は見えませんでした。
彼が家に帰って見ると、地上の世界の昔からの知り合いに会うことはもうできませんでした。(地上の時間が過ぎてしまった。)この事跡のため、人々はこの山をまさにランカー山(斧の山)、または仙遊(ティェンズ)山(仙人が遊ぶ山)と呼び、その名をとって県の名を付けました。仙遊(ティェンズ)県には、旧跡が残っています。
仙遊(ティェンズ)山には、金の水牛の精がいて、夜中になるといつも光を放ちました。ある僧侶が錫杖(しゃくじょう)を取って水牛の額を祓うと、金の水牛が走って逃げ地面に激突し、地面が崩れ池になりました。この場所は後に觸?(フック 角がぶつかる)村と呼ばれるようになりました。
水牛は文(蚊)河?(バンザン)の地領に走って行ったので、ここには 水牛は文(蚊)河?(バンザン)の地領に走って行ったので、ここには
付録第11話 望夫(ボンフ)山の神の話
Truyện thần núi Vọng Phu
とても有名な悲しいお話しです。
色々なバージョンがあります。
望夫(ボンフ)山は、武昌(ブースオン)県にあり、順化(トァンホア)道の海の口にあります。むかし、森の中で木こりとして働いていた男の子と女の子のきょうだいがいました。兄は木を切っていて、手をすべらし妹の顔にぶつけてしまいました。 妹はあまりの痛さに地面に倒れてしまいました。 兄は妹が死んだと思い、怖くなって逃げて遠くに行きました。
妹はある老人に助けられ育てられました。大人になると非常に美しくなり、昔とは見違えるようでした。老人が亡くなった時、妹は結婚しましたが、夫は自分の兄でした。兄は妻が妹であることを知らなかったのです。彼は妻のひたいに傷跡があるのを見て、その理由を聞きました。妻は言いました。「私が子どもの頃、兄について森に行って木を切りました。兄は誤って私のひたいの真ん中を切って、逃げてしまいました。兄がどこで生きているか、死んでいるかわからないのです。」
兄は妻が自分の妹であることに気がつきました。でも、すでに夫婦として結ばれていたので、心配ではっきり言うことができず、商売に行くという口実で、出かけて二度と戻って来ませんでした。
妹は夫が自分の兄だとは知らず、毎日待って、やがて死んで岩になってしまいました。人々はその石を望夫(ボンフ)岩と呼んでいましたが、やがて、その岩を神聖なものと見なし、崇拝する寺院を建てました。
付録第10話 鴻嶺(ホンリン)山の神の伝説
Truyện vị thần núi Hồng Lĩnh
不思議な仙女の伝説です
鴻嶺(ホンリン)山は乂安(ゲアン)道にあります。かつて、羅山(ラソン)県で、4人の木こりが山に行って、山の中の湖で平らな岩の上で水浴びする1人の美しい人を見ました。美しい人は4人を見て、急いで湖に飛び込みました。すると、突然、大きな亀が水面に浮かんできたので、4人は恐れて、湖に取った物をたくさん残して逃げました。
4人が1日中歩いても進まずに過ぎると、突然異人がやって来て言いました。「取った物を置いていくなら、ここから出られる。家に帰ったら山の中での話は誰にも知らせてはならない。」その後、話を漏らした人があって、その人は血を吐いて死んでしまいました。
神宗(タントン)帝の代に、王はこの山に来て、山頂に道標を建てました。山には90の峰があります。湖を見る事ままったくできずに、波が打ち寄せる音だけを聞きました。天気はほどなく雨になりました。神に非常な霊能があるのがわかって、王家は礼拝をするよう命じました。今日でも、人々は昔の話を語ります。
その場所は、乂安(ゲアン)省徳光?(ドゥククアン)府羅山(ラソン)県の鴻嶺(ホンリン)山で、現在は宜春(ギスアン)と干祿(カンロク)の2つの県となっています。
付録第9話 應天化育后(ウンティェンハウトゥホアトゥ)神の伝説
Truyện Ứng Thiên Hóa Dục Hậu Thần

有名な土地神(后土)さま
神様の名前は昇級によって
だんだん長くなるので困ります
この神は、もともとは我々のベトナムの国の守り神でした。聖宗(タイントン 1023-1072)の代の神武(タンボー)元年(1069)、王は占城(チェムタイン)の国を征服に行き、ホアンハイ海の口に到着すると、突然大雨が降り、風が強くなり、遠目に山のように見える荒波が押し寄せました。王の船と兵士の船は共に、船着き場に行けずに、海岸に船を停泊させなければなりませんでした。
その夜、夢の中で、白い上着と赤のズボンを着て、薄化粧の優雅ななりの女性が船に乗り込み、言いました。「私はこの土地の精で、魂は長い間木の上にとどまっていました。今、王が出陣する機会にあって、勝利を収めるために、志願して共に行きます。」言い終わると、どこにも姿はありませんでした。
王は目を覚まし、大臣や顧問たちを集め、この話をしました。慧生?(フエシン)という法王がいてこう言いました。「神は木の上にいるとおっしゃいました。ですから確実に祈願すると安心でしょう。」そして親しい人を送り、海岸の山のあちこちを探させ、偶然、夢で見た神と同じで、人の形をした木を見つけて、王の船に引き上げさせ、香を焚いて祈り、その号を后土婦人(ハウトゥフーニャン)としました。
しばらくすると、風は静かに波は穏やかになり、順調に海上を運行し、もう波風の害を恐れることはありませんでした。
王が神を元の岸に置こうとすると、すぐにまた波風が荒れはじめました。慧生?(フエシン)は言いました。「神の意思は、岸にとどまることを望んでいません。」それで、都に戻るために、海の波が静まるよう祈り、神に乞いました。都に着いた時、安郎(アンラン)村に寺院を建てました。
陳英宗(チャンアイントン 1276-1320)の代になって、干ばつがあり、王は祈願のために祭壇を作るよう命じました。神はお告げをするために王の夢に現れて言いました。「この寺院には句芒?(カウマン)王がいて、雨を降らす術があります。」王は目を覚まし、犠牲をささげるよう命じると、本当に大雨が降り、強い風が吹きました。王は、神を后土大婦人(ハウトゥダイフーニャン)とし、人々に功をなす神として、加封して代々報償を与えました。
陳(チャン)朝は、神を應天后土神祗元君(ウンティェンハウトゥタンキーグェンクァン)としました。春の節句にはいつも、土牛(トーグー 土で作った牛)を寺院に持ってきて供えるのが、今でも風習となっています。
151 phố Láng Hạ (phường Láng Hạ, quận Đống Đa, Hà Nội), xưa thuộc đất làng An Lãng (huyện Quảng Đức, phủ Phụng Thiên)
写真はBáo Hànộimới
付録第8話 貞烈な媚醯(ミエ)夫人の伝説
Phụ lục 8: Truyện bà phu nhân trinh liệt Mỵ
チャンパの皇后であったミエ夫人が
自分を欲しがる李太宗(リータイトン)に
文句を言う話。言い方がすごく怖くていいです。
最初、協正佑善夫人でのちに
貞烈が加わって協正佑善貞烈真猛夫人に変えています。
時代で貞操概念も変わったのかもしれませんね
この写真も法律新聞から
ミエ(媚醯)夫人は占城(チェムタイン(チャンパ))国の王であるサーダウ(乍兜)の妻でした。 李太宗(リータイトン 1000-1054)は占城(チェムタイン)を倒し、サーダウ(乍兜)を斬り、ミエ(媚醯)を捕らえて連れ帰りました。リーニャンの川に着くと、王は使者に命じて夫人を女奴隷にしてはべらせようとしました。夫人は激しく怒り、白い織物をつかんで自分の体に巻きつけ、ホアンザン(黄江)川に飛び込んで死んでしまいました。
霞のかかる早朝や月の出る夜にはいつも、その川の淵で嘆く声が聞こえます。我が国の人々は、礼拝するための寺院を建てました。
その後、王たちはリーニャンの地を通過し、龍の船の玉座に座って川を渡り、寺院があるのを見て、臣下に聞きました。臣下は夫人の話について明らかにすると、王はかわいそうに思って言いました。「もし、その真実が神聖なものなら、夫人が私に知らせてくれるだろう。」
その夜、真夜中になると、夫人は王に夢でお告げをしました。夫人は占城(チェムタイン)の服を身につけ、拝みながら泣きぬれ、嘆いて言いました。「私は女子の道を守ります。心は一つ腹は一つは夫といっしょです。サーダウ(乍兜)は陛下に並ぶ者ではありませんが、この地方では優れた人物です。私はいつも夫の恩義に感謝しております。最近、サーダウ(乍兜)は道をあやまり、上帝は天罰を下し、陛下の手を借りて処罰しました。それで国は粉々に消えました。
私は日々夫の恩に報いたいのですが、機会がまだありませんでした。私は幸運なことに、ある日陛下にお会いできました。陛下は使者に命じて、私をこの川の流れに送りました。おかげで純潔を守ることができました。この恩は語り尽くせません。私には、神霊であるということを宣言するための、どのような法術もあります。陛下の耳に届く言葉は何でもあります。」言い終わると、夫人は忽然と姿を消し、その姿はどこにもなかった。
王様は恐怖で目を覚まし、夫人を協正佑善夫人(ヒェップチンフーティエンフーニャン)としました。陳仁宗(チャンチュンフン)の時代に、夫人に対し、さらに烈婦としての貞烈の2字を加え、協正佑善貞烈真猛夫人とし、高潔な純潔さをほめたたえました。
付録第7話 藤州(ダンチャウ)の地の守り神の伝説
Truyện thần thổ địa Đằng Châu
李太祖(リータイトー)がまだ皇帝になる前に
土地の神の寺院を立てる話
その頃は皇帝の座を巡って殺し合いが大変な時代です
彼はお父さんがいなくて、お寺で育ったのだそうです
VOV
この神は元々は藤州(ダンチャウ)の地の古い廟の守り神でした。黎太祖(レータイトー)は、当時はまだ領主でした。そして軍を集めて、藤州(ダンチャウ)で新しい集落を作っていました。ある時、王が散策していると、この村に着き、川の真ん中を進んでいる船が、突然大雨と暴風に遭遇し、そこに停止しなければなりませんでした。
王が、「川岸にある寺院は何か。何か霊能はあるのか。」と聞くと、答える者がありました。「それは藤州(ダンチャウ)の地の守り神の寺院です。この地の人々は河の州の雨が止むことを祈り、非常に霊験あらたかです。」王は大声で言いました。「もし大雨が降って、川のこちら側半分が止むならば、それは実に英霊である。」すると、あっという間に川の半分が雨になり、半分では止みました。王は畏敬の念を感じ、寺院の改築を命じ、香を焚き崇拝しました。
村の人々には、このような詩があります。
立派な大王の大いなる威信よ、
藤州(ダンチャウ)の地に神霊は顕れる。
暴風も雨も侵すことはできない、
あちらでは雨が降ってこちらでは晴れる。
王は、自分がうぬぼれた気持ちをもっていた事に気づきました。その後、黎臥朝(レーゴチェウ 986-1009)が亡くなって機会が訪れました。王は大事の策略を巡らそうとして、寺院に隠れ、霊能があらわれるのを待ちました。
ある夜、夢の中に、異人が来て言いました。「望む意志を持っていれば、あなたは成功するでしょう。すべての方向は順調であり、万国は太平を享受し、3年の間、人々の事業は順調で7つの寺院は安定するでしょう。」王は夢から覚めましたが、まだそれが何を意味するのか理解できませんでした。その夢は吉兆だという人もいました。
王はダンチャウ(藤州)を太平(タイビン)府として格上げし、開天城隍?(カイ ティエンタインホアン)大王をその神としました。重興(チュンフン 1285-1293)元年に、陳(チャン)朝は、カイティエンチャンコック(開天鎮國)の称号を与えました。
寺院は堤防の内側にあり、しばしば洪水で浸水します。川沿いの村の人々は、いつも見守っていて、荷車や馬、雨傘、大笠をもち、堤防を守りにいくような姿の1人の人が仕えています。ですから堤防が低くても水が災いを起こすことはありません。
何年もたって、川の水は寺院の高さまで上がって来ました。統元(トングエン 1522-1527)の丙戌(ビントゥァット)の年、村人たちは堤防の上に寺院を建てることを計画しました。全員が到着すると、寝殿がほぼ完成していました。郡役人も村人も草むらの丘の上で寝ました。すると誰かが地面を掘るための道具を持ってやってくるのが見え、お互いが仕事だと呼びあう声を聞きました。朝になると、柱や岩が堤防から離れて左に移動しています。本当に霊能あらたかです。
その後、神々の行列の日に、コアイチャウの知事のホアンナムキムは寺院について次の詩を吟じました。
州の土地は実に雄大で
開天の社は水害を抑える。
社は本当の奇跡を起し、
一夜にして神の技で移動する。
(興安(フンイェン)省?)キムドン(金洞?)県藤州(ダンチャウ)村の廟は、現在は雲王(ブアマイ)廟として知られています。
付録第6話 洪聖(ホアンタイン)大王の物語
Phụ lục6: Truyện đền thờ Hoàng Thánh Đại Vương
今回も、昔の英雄が神様になるお話しです。
主人公の巨倆(クルオン)の時代は
ベトナムの権力関係がとてもとても複雑なので
ひまがあれば年表と相関図を書いて理解したいと思います。
写真は法律新聞の記事です。裁定の神ですから。
洪聖(ホアンタイン)大王は、黎大行(レーダイハイン 980-1005)帝の治世の范巨倆(ファムクルオン 944-984)のことです。巨倆(クルオン)は南冊(棚)(ナムサック ※海陽(ハイズオン))の人で、祖父はチェムと言い、呉(ゴ)朝のドン ザップ(銅甲?)将軍を務め、倆(ルオン)の父はマンといい、呉(ゴ)朝の南晉王(ナムタンブオン ※呉昌文 (ゴスォンバン)の治世中に高官を務め、兄のディンは、丁(ディン)朝の衛尉(えいい ベウイン)将軍でした。
丁(ディン)帝がまだ幼かった頃、宋(トン)軍が侵攻してきました。大行(ダイハイン)は将兵を集めました。丁(ディン)太后は英雄を選んで宋の侵略者と戦うよう命じました。大行(ダイハイン)は巨倆(クルオン)を大将軍に任命しました。抵抗するために兵を上げて出兵する時、巨倆(クルオン)は将兵を支配し、大行(ダイハイン)を皇帝としました。倆(ルオン)は大尉の職につきました。
李太祖(リータイトー1000-1054)の通瑞(トントゥイ)の年(1034-1039)、王は都護府に多くの疑わしい事があるのを知りましたが、役人はそれを解決しません。そこで王は自ら神を立て各案件の裁定に専念することを欲し、すべての策略がわかるよう霊験でそれを明らかにし、身を清め、香を焚き、上帝に祈願しました。
その夜、夢を見て、赤い服を着た使者が、巨倆(クルオン)を都護府の各裁判官の主に任命するという神の上帝の命令を伝えました。王は使者に聞きました。「その者は誰で、役職は何でしょうか。」すると使者は答えました「黎大行(レーダイハイン)帝の時の大尉の職です」。王は夢から覚め、廷臣に聞きました。
事が明らかになった時、倆(ルオン)を洪聖(ホアンタイン)大王としました。そして臣下に命じて、街の南門の西に寺院を建てさせ、洪聖大王(ホンタインダイブオン)と名を変えて崇拝しました。そして監獄の神として代々崇拝されています。