第2巻第12話 越井傳 越井(ゼンヴィェト)の伝説

・役人崔亮(トイルォン)の息子偉(ヴィー)が、
仙女に仙薬をもらったり、
恋愛して殺されそうになったり、
洞窟に落ちて白蛇に助けられたり、
最後に宝石をもらって金持ちになったりする ファンタジー
・白蛇、仙女、美しい妻、親友、冒険、恩返しが東アジアのファンタジーの基本らしいです。

●崔亮(トイルォン)が殷(アン)王の祠を直す
 越井(ゼンヴィェト)は武寧(ヴーニン)県鄒山(チャウソン)にあります。雄王(フンヴォン)第3代の時代、殷(アン)朝の王が兵を挙げ、南に侵攻し、鄒山(チャウソン)のふもとに駐留しました。雄王(フンヴォン)は龍君(ロンクァン)に助けを求め、龍君(ロンクァン)は天下から天才を探し出せば、敵を追い払えると教えました。ちょうど朔天王(ソックティエンヴォン)が生まれ、鉄の馬にまたがり敵を討ちました。殷(アン)の将兵はみんな逃げました。殷(アン)王は山のふもとで死に、冥界の王になりました。民は祠を建てて祀りましたが、何年も経ち祠は荒廃していました。
 周(チュー)朝が終わり、秦(タン)朝になった時、崔亮(トイルォン)がというこの国の人がいました。秦(タン)朝の役人の御史大夫(グスダイフ 官僚を監査する人)として、しばしばこの地域を通り、荒れ果てた祠を見て同情を感じ、廟を修復しました。そしてこのような詩を作りました。

いにしえの人は、殷(アン)王の道を伝える、
あの年、巡行はここに来たり。
山は秀で水は流れ空の祠が見え、
霊が登った跡にはなおよい香りが残る。
勝敗は1日にして殷(アン)朝の徳を消し、
越裳(ヴィェトゥォン)に偉大な霊を鎮める。
人々はみな心を込めてこれをまつるので、
永遠に国に幸いがあるよう助けたまえ。

 任囂(ニャムヒェウ)将軍の後、安陽王(アンズォンヴォン)の時代、越陀(チェウダー)が将兵を南に侵攻させ、軍を山のふもとに駐留させて、廟のの外観を修理し、手厚く祭祀を行いました。

●仙女麻姑(マーコー)が恩返しに使わされる
 冥土の殷(アン)王は、亮(ルォン)の徳に感じ入り、恩を返したいと考え、仙女の麻姑(マーコー)を地上に使わし、彼を探させました。亮(ルォン)は秦(タン)の国で亡くなって、崔偉(トォイヴィー)という息子はまだ留学中でした。
 正月の15日に、人々がこの祠を訪ねると、そこに人が献上した一対の玻璃(はり)の瓶があって、仙女の麻姑(マーコー)がそれを手に取って見ていましたのですが、突然瓶が地面に落ちて割れて破片になりました。人々は彼女を追いかけて捕まえました。麻姑(マーコー)は破れた服を着ていて、人々には仙女であることがわからないので、彼女を打って辱めました。崔偉(トォイヴィー)はそれを見てかわいそうに思い、自分の服を脱いで与え、彼女を解放しました。
 麻姑(マーコー)が偉(ヴィー)にどこに住んでいるのか聞くと、偉(ヴィー)は父親の来歴を話しました。麻姑(マーコー)は、彼が崔御史(トォイグス)の息子であることを知り、非常に喜んで言いました。「今は恩に報いることができませんが、後できっとお返しします。」
 そして偉(ヴィー)によもぎの葉の束を与えて言いました。「これを大事に持っていて、肌身から離さないください。いずれ頭に腫れ物がある人に会ったら、灸でそれを治しなさい。きっととても豊かになれましょう。」偉(ヴィー)はそれを受け取りましたが、まだ仙薬(せんやく)とは知りませんでした。親友の道士の應玄(ウンフエン)の家に行くと、玄(フエン)は頭に腫れ物ができていました。偉(ヴィー)は言いました。「私はよもぎを持っていてそれを治すことができます。」
 玄(フエン)は治して欲しいと頼み、灸をすると腫れ物は消えました。玄(フエン)は言いました。「これは仙薬です。今は恩に報いることができませんが、別の方法で恩返しさせてください。私はこの病気に苦しんでいる地位の高い親戚を知っています。彼は、病気を治すことができる人には財産を分けても惜しくないといつも言っています。どうかそれを治しに行ってください。それで恩に報います。」

●偉(ヴィー)が仙薬で任囂(ニャムヒェウ)を直す
 玄(フエン)は偉(ヴィー)を任囂(ニャムヒェウ)の家に連れて行き、治療をすると、腫れ物はすぐになくなりました。囂(ヒェウ)はとても喜んで、偉(ヴィー)を養子にして、学校を作り勉強させ、仕事が見つかるまで待つようにしました。
 偉(ヴィー)は聡明で、よく本を読み、琴を奏でました。囂(ヒェウ)の娘の芳容(フォンズン)は、偉(ヴィー)を見て恋に落ち関係を持ちました。
 囂(ヒェウ)の息子である任夫(ニャムフー)はこれを知って、偉(ヴィー)を殺したいと思い、彼を猖狂(スォンクォン)神の犠牲に捧げようとして、だまして言いました。「年末に、猖狂(スォンクォン)神に犠牲を供える必要がありますが、まだ犠牲になる人がいません。今、外に出てはいけません。生け捕りにされる恐れがあるので、避けるために密室に隠れなければなりません。」
 偉(ヴィー)は信じて従い、任夫(ニャムフー)は部屋の門に鎖をしました。芳容(フォンズン)にはその意図がわかっていたので、密かに刀を取って偉(ヴィー)に渡しました。偉(ヴィー)は壁を掘って外に出ました。夜中、偉(ヴィー)はこっそりと逃げ、應玄(ウンフエン)の家に隠れようとしました。急いで山を登ると、山には深い洞窟があって、偉(ヴィー)は誤って穴の底に落ちてしまいました。

●偉(ヴィー)が白い蛇に助けられる
 夜の8時頃に穴に落ちて、偉(ヴィー)はあまりの痛さに、起き上がるまでにかなり時間がかかりました。日が出て正午になると、太陽が洞窟を直接照らします。見ると四方はすべて崖で、上る階段はありません。上に大きな岩があり、石乳が岩の板にしたたっています。
 1匹の白い蛇がいて、長さは百丈、角は黄色で、口は赤、ひげは青、うろこは白く、首の下に腫れ物があり、額に金色の字で「王京子(ヴォンキントゥ)」と書いてあります。蛇は出てきて石乳を食べると再び洞窟の中に戻ります。
 偉(ヴィー)は洞窟に3日間いて、とてもお腹がすいたので、石乳を盗み食べました。すると、蛇が出てきて、岩の皿が空になっているのを見て、首を上げて偉(ヴィー)を見て、飲み込もうとしました。
 偉(ヴィー)はおびえてひざまずき、拝んで「私はここに落ちて避難していました。空腹を満たす方法がなくて、これを取って食べてしまい、本当に罪深いです。今、あなた様の首の下に肉の腫れ物が見えます。私は三年よもぎを持っていますから、どうか私の罪を許していただき、技を少々行わせてください。」
 蛇は首を上げて灸を求めました。突然まぶしい火が見え、ひとかけらの炭が洞窟に落ちてきました。偉(ヴィー)が火を取って灸に火を付けると、腫れ物はなくなり治ってしまいました。
 蛇は偉(ヴィー)に背中にまたがって乗れと言うように、前に来て身をかがめました。偉(ヴィー)は背中にまたがって、蛇はすぐ洞窟から出ました。夜10時頃で、崖の上に着きましたが、誰も歩いていませんでした。蛇は尻尾を振って偉(ヴィー)に降りるよう伝え、その後洞窟の中に戻って行きました。
●偉(ヴィー)が殷(アン)王の皇后と会う
 偉(ヴィー)は道に迷い、突然、大きな建物を見ました。門の上には高い楼があり、赤い瓦は豪華で美しく、灯りが煌々と輝いています。赤い額が門に掛かっていて、金字で「殷(アン)王の城」と書かれています。
 偉(ヴィー)が門のそばに座って中庭を見ると、池があって5色の蓮の花がありました。池の畔にはエンジュの木と柳が何列も並んでいます。れんが造りの道は平らで、翡翠の宮殿と真珠の宮殿、高い屋根に広い廊下。上には金竜の床(とこ)があり、銀の花の絨毯が敷かれています。琴と瑟(しつ 楽器)は2台ありますが、誰もいないようです。
 偉(ヴィー)が行って楽器を演奏すると、突然何百人もの美しい少年や美しい少女が殷(アン)王の皇后に付き従って門を開けて出てきます。偉(ヴィー)は驚いて殿を降りてひれ伏しました。
 后(ハウ)は笑って言いました。「崔(トイ)官人(かんにん)はどこから来たのか。」 そして、殿に上がるように招き言いました。「かつて、殷(アン)王の祠は廃墟となって荒廃し、参拝する者もいませんでした。しかし崔御史(トイグスー)による修復のおかげで、人々はその模範にならって、いつまでも崇拝しています。」「私たちはその徳に報いるために仙女麻姑(マーコー)を使わしましたが、御史(グスー)には会えず、息子に会ったと言います。まだ恩は返していませんが、今息子の顔を見ることができました。しかし上帝が命じたので、王は天にいてここにいないのです。」
 そして素晴らしい酒と食事を出すように命じ、酔って満腹になるようにさせました。宴が終わると、長いひげの大きな腹の人が前に来て「正月の13日に、北の人である任囂(ニャムヒェウ)が猖狂(スォンクォン)神に殴打されて殺されました。」と報告しました。
 報告が終わると后(ハウ)は言いました。「羊(ズォン)官人が崔(トイ)公子をこの世に戻しなさい。」そして后(ハウ)は門の中に戻って行きました。羊(ズォン)官人は偉(ヴィー)に目を閉じさせ肩に座らせ肩に載せると、ほんの少しの間で山の上に着きました。
 羊(ズォン)官人は石の山羊に変化し、山に立ちました。そして今もまだ鄒山(チャウソン)山の趙越王(チェウヴィェトヴォン)寺院の裏にあります。

●偉(ヴィー)が妻と宝珠を得る
 偉(ヴィー)は應玄(ウンフェン)の家に戻るとこの事を初めから最後まで話しました。8月1日になって、陽の光が傾いて当たるとき、偉(ヴィー)と玄(フェン)が外を歩くと、仙女麻姑(マーコー)に会いました。彼女は1人の娘を連れてきて偉(ヴィー)と夫婦にし、彼らに龍燧真珠(ロントゥイヴィェンゴック)を与えました。
 もともと、その宝珠は雌雄一対で、黄帝(ホアンデー)の時代から殷(アン)朝の時代に伝えられ、今でも世の宝として受け継がれています。
 鄒山(チャウソン)の戦いでは、殷(アン)王ははそれを身に着けて亡くなり、宝珠は地中に埋められましたが、その輝きは常に空を照らしました。秦(タン)の時代、兵士は火を放ち、宝物は燃やされました。しかし、人々はその霊気を見て龍燧宝珠(ロントゥイヴィェンゴック)がまだ南にあることを知り、遠くから来てそれを探しました。ここに到って殷(アン)王は偉(ヴィー)の恩に宝珠で報いました。当時の人が金銀彩緞の値段の百万貫でそれを購入したので、偉(ヴィー)は大金持ちになりました。
 その後、仙女麻姑(マーコー)が偉(ヴィー)と妻を迎えに来ました。それからどこに行ったのかわかりません。おそらく仙人仙女になったのでしょう。今、井戸は大きな穴になり、越井崗(ヴィェッティンククォン)と呼ばれています。

第2巻11話 李翁仲(リーオンチョン)の伝説

暴れん坊で困った李(リー)が、戦争で功を上げて将軍になるも、いやになって国に帰り、中国の皇帝の召喚も無視していたら、やっぱり死ぬことになる話
乱暴者が出世する話多いですね

 雄王(フンヴォン)の治世の終わり頃、交趾(ザオチー)の地の慈廉(トゥリエム)県瑞香(トゥイフォン)村に李(リー)という名の人がいて、生まれたから非常に大きく、背丈は2丈3尺でした。
 性質が凶暴で、よく人を殺し、死に値する罪をもっていました。雄王(フンヴォン)はその力を惜しんで罰することをしませんでした。
 安陽王(アンズォンヴォン)の治世になると、北の秦始皇(タントゥイホアン)は、軍隊を強くして戦うことを望んでいました。安陽王(アンズォンヴォン)は李身(リータン)を連れて来て、泰(タン)朝に捧げました。始皇(トゥイホアン)は非常に喜び、彼を司隸校尉(しれいこうい 奴隷などの監督官)に任命しました。
 始皇(トゥイホアン)が天下を取ると、李(リー)に、軍隊を連れて臨洮(ラムタオ)の土地を守るよう命令しました。彼の名は匈奴(フンノ)にとどろいていて、かれらはあえて国境に侵入することはしませんでした。
 始皇(トゥイホアン)は李(リー)に輔信侯(フティンハウ)の地位を与え、さらに王女と結婚させました。(すなわち皇妃白淨宮で、六世の代に生まれ、正月10日に亡くなりました。)年を取ると、彼は国に戻りました。
 匈奴(フンノ)は再び国境から侵入しました。始皇(トゥイホアン)は、李身(リータン)のことを思い出し、人を使わして来るようにしました。李身(リータン)は行くのがいやで、山中に隠れました。秦王(ブアタン)はこれを責めましたが、安陽王(アンズォンヴォン)は彼を探し出すことができず、李(リー)が死んだと嘘をつきました。
 秦王(ブアタン)が、なぜ死んだのか聞くと、コレラのためと答えました。秦王(ブアタン)は調べるために使者を送りました。安陽王(アンズォンヴォン)は、お粥を煮てそれを地面に注いで証拠を作りました。秦王(ブアタン)は遺体を持ってくることを要求し、李身(リータン)はしかたなく自死しました(その日は2月2日でした。)
 安陽王(アンズォンヴォン)は、水銀を死体に塗って秦王(ブアタン)に渡すように命じました。始皇(トゥイホアン)は驚いて、銅の像を鋳造し、翁仲(オンチョン)と名付け、運んで咸陽(ハムズゥオン)の地の金馬(キムマ)門の外に建てました。
 像の中には人が何十人か隠れていて、これを揺すって動かします。匈奴(フンノ)はそれを見て、像は生きている将校だと思い、あえて国境はおかしませんでした。
 唐の時代になって、趙昌(チェウスォン)は交州(ザオチャオ)に渡り、南を守る都護(とご)となりました。夜、夢の中で李身(リータン)が「春秋(スアントゥ)」と「左伝(ターチュエン)」の本について話しました。彼の古い家を訪ねる機会があったので、彼を祀る社を建てました。
 後に、高駢(カオビエン)が南詔(ナムチェウ)の敵を打ち負かした時には、李(リー)の霊が降臨して助けました。高駢(カオビエン)は社を修理し、木で彫像を彫り、李(リー)校尉(こうい)の祠と名付けました。今は慈廉(トゥリェム)県の瑞香(トゥイフン)村にあります。(かつては市現(トゥイハム?村)と呼び、今は瑞香(トゥイフン)村と呼びます。)城塞から15里のカイ川のほとりにあります。
 今日も祭礼は最も霊的な社で、毎年恒例の春祭りが行われる國威府の近くにあります。

このような詩があります
文武に優れた偉大な人、
咸陽(ハムズン)に像を残し、胡の群れを鎮め
永著(ビンクォン)で、夢に入り込み経を語り
南天の強大な帝国で祀られる

第1巻第10話 白い雉の伝説

  • ID--15490  カテゴリー--
  • |

第1巻第10話 白い雉の伝説

・臣下越裳(ヴィェトゥオン)が、中国に行って周公(チューコン)に拝謁して、南だけに行ける車に乗って帰ってきた話
・白い雉は周公(チューコン)への貢ぎ物

 北の周(チュー)朝の成王(タインブォン)の治世の時、南の雄王(フンヴォン)は、越裳(ヴィェトゥオン)氏と称する臣下に命じて、白い雉を貢ぎ物に持って行かせました。
 言葉が通じないため、周公(チューコン)は何回も人に翻訳をさせて、初めて互いに理解できるのでした。周公(チューコン)は「なぜここに来たのか?」と尋ねました。越裳(ヴィェトゥオン)氏は答えました。「今の世に大雨や暴風はなく、海の外では3年間大きな波はありません。中国には素晴らしい聖人がいると考え、ここに参りました。」
 周公(チューコン)は哀れんで言いました。「政令が施行されなければ、君子は人に服従をさせられない。恩恵を広げなければ、君子は人の礼を受けることはできない。また黄帝(ホアンデー)が「ベトナム地域は侵略されることはない」と誓ったことは忘れない。」
 そして、越裳(ヴィェトゥオン)に地元の産物の褒美を与え、教え戒め帰しました。越裳(ヴィェトゥオン)使者が帰る道を忘れたので、周公(チューコン)は命じて5台の馬車を与えました。これらはすべて南に戻れるよう作った車でした。
 越裳(ヴィェトゥオン)氏は受け取って、扶南(フーナム)、林邑(ラムアップ)(チャンパ)の海岸をたどり、1年間かけて国に着きました。この乗り物はまっすぐ行くよう案内し、常に南だけに進むのです。
 その後、孔子は春秋(スアントゥ)経で、文郎(ヴァンラン)国を荒れ果てた場所としています。万物はまだ整備されず、荒れたままで捨てられていて、記載せずにおかれました。
 古い写本では、周公(チューコン)は「交趾(ザオチー)の人は髪を短く切り、入れ墨をし、頭をむき出しにし、裸足で歩き、歯を黒く染めるのは何故か?」と尋ねたとあります。
 越裳(ヴィェトゥオン)氏は答えました。「髪を短くするのは、ジャングルの中を歩きやすくするためです。入れ墨を入れるのは龍君(ロンクァン)の形に似せて、河を泳いで行くときに、蛟龍(ザオロン)に襲われないためです。裸足で歩くのは木に登りやすいからです。刀で耕し、焼いて植えます。頭をむき出しにするのは、炎熱を避けるため。キンマを噛めば汚れがきれいになり、そのため歯は黒くなります。」

第1巻第9話 西瓜の伝説

  • ID--15489  カテゴリー--
  • |

第1巻第9話 西瓜の伝説

su-tich-dua-hau---truyen-co-tich-viet-nam.jpg・奴隷から高官になって、失脚して島流し、その後西瓜で大成功した、外国人枚暹(マイティエム)の話

◆有能な外国人の暹(ティエム)
 雄王(フンヴォン)の治世に、枚暹(マイティエム)という役人がいました。元は外国人で7、8歳の時、王が商船から買って奴隷にしていました。
 成長すると容貌は端正で、事物を覚えよく識り、王は枚偃(マイイェン)という名と安暹(アンティエム)という姓を授けました。また1人の妾を与え、暹(ティエム)には1男1女が生まれました。
 王は彼を信頼し、仕事をまかせ、彼はだんだん裕福になり、俸禄(ほうろく)も多くなりました。暹(ティエム)はおごり高ぶり傲慢になると、いつも「すべて私の前世のおかげであり、主人の恩のためではない。」と言いました。
◆暹(ティエム)追放される
 王は聞いて怒り言いました。「臣下としたのに、おごり高ぶり傲慢で、主人の恩を忘れ、前世のためなどと言う。宮廷から連れて行き、無人の地に置いて、それでも前世があるかどうか見てみるがよい。」
 それから枚偃(マイイェン)を峨山(ガソン)縣(別名は夾山(ザップソン))の海の河口の州で、四方すべてが砂と水に囲まれた、人の往来もない所に連れて行きました。4、5か月間は食べるのに十分な食べ物を与えられましたが、食べ尽くせば死んでしまいます。
 暹(ティエム)の妻は慟哭しましたが、暹(ティエム)は笑って言いました。「天が私を生んだのだから私を養うのは当たり前だ。生も死も天による。何も心配することはない。」
◆西瓜の種
 見ると1匹の白い雉が西から飛んで来て、山頂に止まり、3、4回鳴くと、6、7個の瓜の種が音と鳴き声と共に砂の上に落ちてきて、やがて青々と茂り、実を結びました。安暹(アンティエム)は喜んで言いました。「これは怪しい物ではありません。私たちを養うために天が与えた物です」。切って食べると、いい匂いでおいしく美味しく、気持ちも爽快になり、次の年に植えるよう種も取っておきました。どれだけ食べてもなくなることなく、また妻子を養う米に交換もできました。
 暹(ティエム)はその果物が何というか知りませんでした。雉が西の方から飛んできて種を持って来たので、それを西瓜(タイクア)と呼ぶ事にしました。魚釣りの人々も、商人たちも、みなおいしいと思いました。近くの村や遠くの村の人々は、みなこの種を手に入れるために買いに来ます。
◆暹(ティエム)王宮に帰る
 王は暹(ティエム)のことを思い出し、まだ生きているか死んでいるか、人を見にやりました。その者は王宮に戻り王に報告しました。王はため息をついて嘆いて言いました。「奴はそれが彼の前世のせいであると言ったが、それは実に嘘ではなかった」。それから彼を呼び戻し、以前の職に戻し、奴隷も与えました。
 暹(ティエム)がいた砂浜は安暹(アンティエム)浜と呼ばれ、その場所は枚(マイ)村と呼ばれています。安暹(アンティエム)の祖先が住んでいた場所は清華(タインホア)省峨山(ガソン)県の安暹(アンティエム)州だとして崇拝する人もいます。

第1巻 第8話 バインチュンの話

  • ID--15488  カテゴリー--
  • |

第1巻第8話 バインチュンの話

ehon2_9.jpg・誰を次の王にするかを、作ってきたおいしい食べ物で決めるという、食い意地の張ったお話。
・主人公郎僚(ランリェウ)は第7代目雄王(フンヴォン)の雄昭王になります。

 雄王(フンヴォン)は、殷の敵を打ち破った後、国が安泰なので、子どもに王位を譲りたいと考え、22人の王子と王女を呼んで言いました。「私は意にかなった者に王位を譲りたい。この年末、特別においしい物を祖先に供え、先の王に孝行できる者が王位を受け継ぎなさい。」
 子どもたちは皆、おいしい食べ物やめずらしい物を求め、陸の上や水の中など数え切れないほどたくさんの場所に探しに行きました。
 ただ18番目の息子である郎僚(ランリェウ)だけは、母が王に冷たくされ孤独に亡くなっているので、近くに助けてくれる人はいませんでした。なんとかできそうになく昼も夜も心配し、夢を見ても不安でした。
 ある夜、夢の中に神人(しんじん)がやって来て言いました。「天と地にある物で、人間に貴重な物は米のほかにはない。米は人間を養い健康にし、食べて飽きることはない。他の物ではこれ以上のことはできない。」「さあ、もち米を使って餅を作りなさい。四角と丸い形で天と地を表し、葉を使って外側を包み、中にはおいしい味の物を入れて、父母が生んで育てた功徳を示すのだ。」
 郎僚(ランリェウ)は目を覚まし、喜んで言いました。「神人が私を助けてくれた。」
 言い終わると、夢の指示に従って、真っ白なもち米を選び、砕けていない丸い米粒を選び、洗ってきれいにして、緑の葉で四角く包み、中においしい味の物を入れ、天と地とすべての物のイメージを表し、よく煮て、それをバインチュンと名付けました。さらに、もち米を炊いて、よくつぶして、天を象徴する丸い形にして、それをバインザイと名付けました。
 時が来たとき、王は喜んで子どもたちに物を献上する場所に並べるよう命じました。すべて見まわってて、食べ物に無いものはないことを確認しました。ただ郎僚(ランリェウ)だけは、バインチュンとバインザイだけを献上しています。王が驚いて聞くと、郎僚(ランリェウ)は夢のことを話しました。王はそれを味わい、おいしく飽きずに食べられ、ほかの子供たちのいろいろな料理よりも優れていると、ずっと賞賛し、郎僚(ランリェウ)を1番としました。
 正月になると、王はいつもこのバインを持って父母に捧げます。国の人々は今に到るまでそれをまねています。郎僚(ランリェウ)は名を節料(ティェトリェウ)に改名しました。(節料(ティェトリェウ)は正月の食べ物の意味もあります。)
 王は王位を僚(リェウ)にゆずり、21人の兄弟たちは分割された領地で集団を作り、国を作りました。その後、それぞれの国の軍は互いに争い、防御のために木の柵を作りました。そこから、柵(サック)、村(トン)、荘(チャン)、坊(フォン)が始まりました。

第1巻その7 檳榔(びんろう)の伝説

 ehon3_11.jpgなんでこの展開になるのか? みなさん納得いかなかったようで、もっと脚色した話がたくさんあるキンマの起こりの話です。

 昔、ある王子がいました。体格は背が高いので、王は高(カオ)という名前を与え、それからは一族の姓を高(カオ)と名乗るようになりました。
 高(カオ)には2人の息子が生まれました。長男は檳(タン)、次男は榔(ラン)です。兄弟2人はそっくりで見分けがつきません。17、8歳の時、両親が亡くなり、2人は劉玄(ルーフエン)道士のもとで勉強しました。
 劉(ルー)家には、璉(リエン)という娘がいて、年はやはり17、8歳でした。兄弟2人は彼女を見た時とても気に入って結婚したいと思いました。彼女はどちらが兄であるかわからなかったので、2人が食事できるよう粥の椀と箸を並べておくと、弟が兄に先に食べるよう譲りました。彼女は戻って両親に兄の妻になりたいと言いました。
 夫婦が同居すると、兄はいつも弟によそよそしくなりました。弟は自分が情けなくて、兄は結婚して自分を忘れてしまったと思い、別れの挨拶もしないまま、そこを出て故郷に戻りました。
 森の中まで行き、深い谷川に来て、渡る船もなく、痛々しいほど泣くと、弟は死んで岸に生える木になってしまいました。
 兄は家に弟がいないので探しに行きました。その場所に来ると、木の根元で死んでしまい、木の根を抱いて横たわる石になりました。
 妻は夫を探しに行き、その場所に着くと、石を抱いて死に、木と石に巻き付く蔓草に変わり、その葉からはスパイシーないい香りがしました。
 劉(ルー)氏の父母は娘を探してここに来て、深く悲しみ、そこに社を建てました。人々は皆、兄弟の調和と夫婦の節義を賞賛して、香を焚いて祈りました。
 7月か8月の暑さがまだ収まっていない頃、雄王(フンヴォン)は巡行に行き、社の前で足を止めて涼みました。茂った葉や絡み合った蔓を見て、それらを口に入れて噛み、石に唾を吐きました。それは赤い色で甘い香りがしました。王は石を焼いて石灰を作り、蔓の木の実や葉と一緒に食べるよう命じました。いい香りでおいしく、唇は赤く頬は紅色になります。それが貴重なものだとわかって、持って帰るよう命じました。
 今日、木はあちこちに植えられています。ビンロウジュの木、キンマそして石灰がこれです。後に、南の国の人々は結婚式や、大きな行事や小さな行事の時、初めにキンマを差し上げます。ビンロウジュの木の起源はこのようなものなのです。

木の妖魔の伝説

 古代の峰州(ダットフォン)の地に、旃檀(チエンダン)と呼ばれる大きな木がありました。高さは千ひろ(3330m)を超え、枝葉は生い茂り密集しているので、何千里あるのかもわかりません。鶴が飛んできて止まる(一説では巣を作る)ので、この地は白鶴(バックハック)と呼ばれていました。(Vĩnh Phúc省Việt Trìの近く)
 何千年を経て、木は枯れて妖魔となり、しばしば形を変え、強く勇気があり、人を殺し、動物に危害をなすことができました。
 涇陽王(キンズォンブォン)が鐘の術を使って木の精を打ち負かすと、少しおとなしくなるのですが、またあちこちに現れ、計り知れないほど変化し、よく人を取って喰います。
 人々は毎年の終わりの大晦日までに祭壇を建てなければなりません。慣習に従って、生きている人(犠牲)を捧げるために運ぶと、人々が平和でいられるのです。人々は妖魔を猖狂(スォンクォン)神と呼びます。
 この土地の南西の国境は獼猴(ミーハウ)国(チャンパ)に接していました。雄王(フンヴォン)あるいはその国王は、現在の演州(ジェンチャウ)府の婆露(バーロ)蛮人に命じ、毎年、峡谷に住んでいる獠子(ラオトゥ)(少数民族のこと)に犠牲をやめさせるようにしましたが、決まりを変えることはできませんでした。
 秦始皇(タントゥイホアン)になった時、任囂(ニャムヒェウ)が龍川(ロンスエン)の長官に任命されて、生きる人を犠牲にする旧弊を改革すると、猖狂(スォンクォン)神は腹を立てヒェウ(囂)を呪い殺したので、結局、その後さらに入念に祀らなければならなくなりました。
 丁先皇(ディンティエンホアン)王の治世に、北の出身の法師、文俞祥(ヴァンズートゥオン)がおりました。徳を積み高潔で、多くの国を旅し、蛮人の言葉に通じ、金の牙と青銅の歯を作る技術を習得していました。年齢は80歳以上でしたが、この南の国に渡って来ました。
 先皇(ティエンホアン)は法師と師弟の儀式を行いました。法師は猖狂(スォンクォン)神に見せて喜ばせる術を教え、かれを殺すように言いました。
 この見世物には、尚騎(トゥオンキー)、尚竿(トゥオンキー)、尚險(トゥオンヒエム)、尚鈎(トゥオンダット)、尚韃(トゥオントアイ)、尚碎(トゥオンカウ)があります。毎年11月になると飛雲樓(ロウフィバン)が作られます。高さ20尺(または50尺)、中に1本の木を立てて、麻の皮で編んだ長さ136尺、太さ2寸の大きな綱を張り、そして籐を編んで外側を結び、両端は地面に埋めて、真ん中を木の上に上げます。
 尚騎(トゥオンキー)は綱の上に立ち、3、4回疾走し、落ちることなく行き来します。頭には黒いはちまきを付け、体には黒いズボンを着ています。
 尚竿(トゥオンカン)の綱の長さは150尺で、3つに分かれる所があります。2人は両手で各自旗竿を持ち、綱の上を歩いてきて分岐点で出会うと、お互いかわして上がったり下がったりして、決して落ちません。
 尚韃(トゥオンダット)は、幅1尺3寸、厚さ7寸の大きな木の板を、高さ17尺3寸の木の上に置き、上に立っている韃(ダット)は2度3度と跳ね上がり、前に後にひっくり返ります。
 尚碎(トゥオントアイ)は竹を使って、長さ5尺、径が4尺のびくのような形のかごを作り、這い入って、立っては転がります。
 尚鈎(トゥオンカウ)は手をたたいて(または合わせて)、飛んで踊り、大声を出し叫び、手足を動かし、太ももに触れたり、お腹をさすったり、上下に動かしたり、また馬に乗って走り、身をかがめて地面に落ちることなく物を拾ったりします。
 尚險(トゥオンヒエム)は仰向けになり、体で長い棒を支え、そこに子どもを登らせ落とすことはありません。
 歌手たちが歌うときは、鐘をならし太鼓をたたき、みんな騒々しく歌い踊ります。また獣を殺して犠牲に捧げます。
 猖狂(スォンクォン)神がついにそれを見に来たので、法師は秘密の呪文を唱え、剣を取って切りました。猖狂(スォンクォン)神とその家来は全員死んで、もはや妖魔に戻ることはできませんでした。 毎年の犠牲の祭りはなくなって、人々は昔と同じように平和に暮らしました。

ehon4_1.jpg一夜沢の伝説(褚童子の伝説)

◆結婚したくない王女仙容
◆貧乏な童子(ドントゥ)
◆2人の結婚
◆河港の市場で大成功
◆童子(ドントゥ)仏教に帰依する
◆大きな国になり父が征伐に来る
◆国が消え去る
◆後日譚 クアンフック(光復)の戦い

◆結婚したくない王女仙容
 雄王(フンヴォン)三世(または十八世)に1人の娘が生まれました。名は美しい娘の仙容(ティエンズン)です。18歳になって容姿は優れて美しく、結婚はいやで遊ぶのが好き。あちこちを旅していていました。雄王(フンヴォン)三世はそれをとがめませんでした。毎年2、3か月は船をしたてて、海でセーリング、楽しくて家に帰ることも忘れていました。

◆貧乏な童子(ドントゥ)
 その頃、大きな川のほとりの褚舍(チュウサ)村(huyện Gia Lâm, thành phố Hà Nội)に、褚微雲(チュヴィヴァン、または褚微子)という人がいて、褚童子(チュドントゥ)という息子が生まれました。父は子を慈しみ、子は親に孝行し、でも家が火事にあって、財産はすべて無くなってしまったのです。ただ1枚腰巻きだけが残っていたので、父と息子は、出かけるときはかわるがわるそれを着けていました。
 父が重い病気になった時息子に言いました。「父が死んだら裸にして埋めて、お前は腰巻きを持っていなさい。」息子はそうするに忍びなく、腰巻きを使って父の亡骸を包みました。
 童子(ドントゥ)の体は丸裸で、空腹で寒くて惨めでした。川縁に立って商いの舟が通り過ぎるのを見るたびに、水の中に立って物乞いをしました。

◆2人の結婚
 あるとき、彼が稼ぎのために魚を捕っていると、思いがけず仙容(ティエンズン)の船が近づいて来ました。太鼓と鐘のドラムのエレガントな音楽が流れ、侍従もたくさんいます。
 童子(ドントゥ)は恐ろしくなりました。砂州の上には葦の草むらがあり、木がまばらに数本生えていました。童子(ドントゥ)は身を隠そうと、砂の穴を掘って横たわり、体に砂をかぶせました。
 そのすぐ後に、仙容(ティエンズン)は砂州で散歩を楽しむために船を係留し、水浴びするために草むらを幕で囲うよう命じました。仙容(ティエンズン)が天幕に入り、服を脱いで水を注ぐと、砂が流れて、童子(ドントゥ)が現れました。
 仙容(ティエンズン)はしばらく驚いていましたが、それが男子であることを知って言いました。「私は元々は結婚はしたくありませんでした。今この人に会って、同じ1つの穴に裸でいっしょにいて、これは天の運命なのでしょう。あなたはどうぞ立って水を浴びてください。あなたに着る服を与えましょう。そして、船に乗って祝賀会をしましょう。」
 船の人々は皆、今まであったこともないめでたいことだと考えました。童子(ドントゥ)は言いました。「いいえ、できません。」仙容(ティエンズン)は嘆いて、夫婦になるように命じましたが、童子(ドントゥ)は断りました。仙容(ティエンズン)は言いました。「これは天が縁を結んだことです。どうして拒むことができるでしょう」
 侍従は急いで戻って王に報告しました。雄王(フンヴォン)は言いました。仙容(ティエンズン)は名節(名誉と節操)を無視して、私たちの財産も気にかけていない。外をほっつき歩き、自分を卑しくして貧乏人を婿に取った。合わす顔などもうない。」

◆河港の市場で大成功
 仙容(ティエンズン)はこれを聞いて恐れ、無理に戻るのはやめて、童子(ドントゥ)といっしょにいることにして、河の港の市場を開き、街を建設し、人々と商売をしました。市場はだんだんと大きくなっていきました。(今は深(タム)市場または河梁(ハールオン)市場と呼ばれています)
 外国の富裕な商人が、貿易のために頻繁に往来きし、仙容(ティエンズン)と童子(ドントゥ)を領主として崇拝します。
 ある金持ちの商人が言いました。「身分の高い人は黄金1鎰(ダット 約800~1,000g)でも出します。今年海外で貴重なものを買ったら、来年には10鎰(ダット)にもなるでしょう。」仙容(ティエンズン)は喜び童子(ドントゥ)に話しました。「私たち夫婦は天が使わした者です。食べ物も衣服も天が与えます。さあ黄金を携えて金持ちの商人といっしょに貿易に船出し、生計を立てましょう。」童子(ドントゥ)はついに家の者たちと海外に出かけました。

◆童子(ドントゥ)仏教に帰依する
 瓊園(クインヴィェン)山という所には、山頂に小さな庵があり、家の者は船をつないで水を汲みました。商人たちはよくそこに立ち寄って飲み食い飲みしていました。童子(ドントゥ)は山の家の庵を訪ねました。そこには仏光(グォンクアン)という名の僧がいて、仏法を童子(ドントゥ)に伝えました。童子(ドントゥ)はそこに留まって学び、家の者には商売を行うためにお金を与えました。買い入れが終わると家の者は童子(ドントゥ)を迎えに庵に戻ってきました。僧は童子(ドントゥ)に1本の杖と1つの笠を与えて言いました。「霊聖はここにある。」
 童子(ドントゥ)は戻って仏教の道を説きました。仙容(ティエンズン)も仏教に帰依しました。2人は街、市場そして家業を捨て、教えを学ぶための師を探しに遠くまで出かけました。道の途中で暗くなりましたが、まだ村は見えません。2人は路上で泊まることにして、杖をつかんで笠をかぶって身を休めました。

◆大きな国になり父が征伐に来る
 真夜中になると、城郭、翡翠の楼、宝物殿、回廊、倉、神殿が現れました。金銀珠玉、寝床に布団に垂れ幕、仙童天女、兵士に護衛が目の前に並んでいます。翌朝それを見た人はみんなびっくりしました。香花、食べ物を持ってきて捧げ、自分たちが仕えさせてもらえるよう頼みました。文官武官あらゆる官職を置き、警備隊も作り、独立した国を作りました。
 雄王(フンヴォン)は知らせを聞いて、娘が反乱を起こしたと思い、征伐のために軍隊を送りました。仙容(ティエンズン)の群臣たちは彼女に国を守って戦うために軍隊を送るように頼みました。仙容(ティエンズン)は笑って言いました。「私はそうしたくありません。すべて天が決めること、生きるか死ぬかは天のまま。どうして父に刃向うことができるでしょう。ただ道理に従うだけです。剣で殺し合うのはやめておきましょう。」

◆国が消え去る
 そして新しく集まった人々は皆恐れて逃げ、古くからの人々だけが残りました。官軍はやって来て砂州の上に陣を構えました。しかし大きな川で隔てられている上、日が暮れて軍は進むことができません。夜半になると、強風が起こり、砂を吹き飛ばし木をなぎ倒しました。官軍は大混乱しました。仙容(ティエンズン)は人々や城郭と共に瞬時に天に舞い上がり、地面は陥没して巨大な低湿地になりました。
 その後、人々は祠廟(しびょう 祈るための祠)を建て、四季ごとに犠牲を捧げ、低湿地を一夜沢(ニャットザチャック)(一晩でできた低湿地を意味します。)と呼びました。砂州は幔幮(マンチュー)州、市場は深(タム)市場あるいは河梁(ハールオン)市場と呼ばれています。

◆後日譚 クアンフック(光復)の戦い
 その後、北の後梁(ハウルオン)王は、陳霸先(チャンバーティエン)に命じ、軍隊に南部を侵略させました。南の李南(リーナム)帝は趙光復(チェウクアンフック)に敵に抵抗するように命じました。
 光復(クアンフック)は軍隊を低湿地に潜ませました。低湿地は深く広がっていて、敵の軍隊は邪魔をされて、兵を進めるのは困難でした。光復(クアンフック)は丸木舟を使って、奇襲をして敵の食料を盗みました。長い間耐え続けて敵軍は疲労してきました。3、4年の間は戦闘になることはありませんでした。霸先(バーティエン)は嘆いて言いました。「昔々この地は一夜にして天に帰る沢だったが、今は一夜にして人から盗む沢だ。」
 北で侯景(ハウカイン)の乱が起きると、梁(ルォン)王は霸先(バーティエン)を呼び戻し、楊孱(ズォンサン)を中将軍に任命して兵士たちを指揮させました。光復(クアンフック)は斎戒して、低湿地の真ん中に祭壇を作りました。香を焚いて祈祷すると、突然龍に乗った神(あるいは褚童子(チュードントゥ))が祭壇(あるいは低湿地)に飛んで来て、光復(クアンフック)に言いました。「私は天にあるが精霊はここに現れた。お前たちが熱心に祈るので、助けに来て賊の乱を鎮めよう。」話し終わると彼は龍の爪を取って、それを光復(クアンフック)に与えて言いました。「これを兜にのせれば、矛で敵を倒せるだろう。」そして、空に飛んで行きました。
 光復(クアンフック)はそれを受け取り、喜んで叫び、戦闘を始め、梁(ルオン)軍を大敗させました。陣地の前で楊孱(ズォンサン)を矛で斬り、敵の梁(ルオン)軍は退却しなければなりませんでした。光復(クアンフック)は南帝(ナムデー)が亡くなったと聞いて、独立するために趙越王(チエウヴィェットブォン)となり、鄒山(ブーニン)県の鄒山(チャンソン)に城を建設しました。(一説では南海海門外の石河県園山すなわち金木山です。)

ehon3_9.jpg董天(ドンティエン)王の伝説

◆殷王の侵略に備え、龍王(ロンブォン)を招く
◆国中で勇者を探す
◆鉄の馬と兜を作る
◆天の将軍が殷王を倒す
◆天の将軍、扶董天王(フードンティエンヴォン)を祀る

子どもが有名な将軍になったきっかけは、母親の文句だったという、衝撃の展開です。

◆殷王の侵略に備え、龍王(ロンブォン)を招く
 雄王(フンヴォン)は、国が豊かで強力であることに安心して、北に拝謁するのを怠っていました。殷朝の王は、巡行を口実に侵略をしました。
 雄王(フンヴォン)はその知らせを聞いて、彼の廷臣を呼んで攻守の策について尋ねました。ある道士が「龍王(ロンブォン)に軍を連れてくるよう助けを求めては」と王に進言しました。
 王は聞き入れて、祭壇を築き、その上に金、銀、絹を供え、斎戒し、香を焚き、3日間祈祷しました。すると大雨が降り風が吹き、突然、身の丈は9トゥック(約4m)を超え、顔は金色、腹は大きく、白い髭の老人が現れ、三つ角に座り、談笑し歌を歌い舞い踊っていました。人々は特別な人であると思って、王に報告しました。
 王は自ら挨拶に出て、彼を祭壇に迎えました。その老人は食べませんし話もしません。王は尋ねました。「北の兵が侵攻したと聞きました。私たちは負けるか勝つか、あなた様は見聞がおありです。どうかお教えください。」老人はしばらく黙って座ってから、占いの札を引き、王に言いました。「3年後に北の侵略者がやってくる。厳重に武装し、兵士と上官を鍛錬し国を守らなければならない。そして世の中から特別な天才を探さなければならない。敵を破ることができる者には称号と領地を授け継承を許しなさい。もしふさわしい者がいれば、敵を倒すことができる。」老人は話し終わると空に飛んで行きました。それで彼が龍君(ロンクン)であることがやっとわかったのです。

◆国中で勇者を探す
 3年がたち、国境の人々から殷の敵が到着したと知らせがありました。王は老人の言葉に従い、才能ある人を登用するため、使者をあちこちに送りました。
 使者は北寧(バクニン)の仙遊(ティエンズー)県董鄉(フードン)村に着きました。そこには60歳を過ぎてから1月7日生まれの息子を授かったお金持ちの人がいました。子どもは3歳になっていましたが言葉を話さず、仰向けに寝るだけで、座ることもできませんでした。
 子どもの母親は使者が来たと聞いて冗談を言いました。「生まれたこの子は、食べることしか知らないし、敵と戦う方法もわからない。王様の報酬をもらってお乳の恩を返せない。」子どもは母親が話すのを聞いて突然「ここに使者を呼んでください。」と言いました。母親はとても驚いて近所の人に話しました。近所の人たちは大喜びして、すぐに使者を呼んで来ました。使者は聞きました。「お前は幼く話ができるようになったばかりだ。なぜ私たちを呼んだのか?」

◆鉄の馬と兜を作る

 子どもは起き上がって使者に言いました。「急いで戻って王に告げてください。高さ18トゥック(約8m)の鉄の馬、長さ7トゥック(約3m)鉄の剣、鉄の鞭、鉄の兜を作ってください。私は馬に乗って兜をかぶって戦います。敵は絶対に倒れます。王に何の心配があるでしょう。」
 使者は非常に喜び、急いで戻り王に報告しました。王は驚きながら喜んで言いました。「もう怖れることはない。」近臣達は言いました。「どうして1人で敵を倒すことができるのか。」王は怒って言いました。「かつての龍君(ロンクン)の言葉に間違いはない。お前たち、疑うのはやめろ。急いで、鉄50カン(斤)の鉄を探して精錬し、馬、剣、鞭、兜を作るのだ。」
 使者が着いて、母親は災難が起こるのを怖れていました。息子は笑って言いました。「お母さん、僕が食べられるように、ご飯と酒をたくさんください。敵と戦う事はお母さんは心配しないで。」子どもはすごい早さで成長し、たくさん食べて飲んで食べ物はなくなり、母親の上げるものでは足りません。 近所の人たちは、たくさんの水牛、酒、餅、果物を用意しましたが、子どもはまだ満腹になりませんでした。絹布錦織はたくさんありましたが、それでも体を覆うことができず、葦の穂を取ってきて体を覆うために足して結ばなければなりませんでした。

◆天の将軍が殷王を倒す
 殷朝の軍隊が武寧(ヴーニン)の鄒山(チャウソン)山のふもとに着いた時、子どもは足を伸ばして立ちました。10トォック(4.25m)を超える高さでした。(チュォン(約3.3m)と呼ぶ所もあります。)彼は鼻を空に向け10回以上くしゃみをすると、剣を抜いて叫びました。「我は天の将軍なり!」そして兜をかぶり馬にまたがりました。
 馬は跳ね上がり、長くいななき、飛ぶように疾走しました。一瞬で殷王の軍の前に来て、剣を振って前に行くと、味方の軍隊は後に続き、敵の砦の目前に進みました。 敵軍は逃げ出し、残った者は誰もが天の将軍にひれ伏し叫び降伏しました。
 殷王はこの戦いで死にました。キムホア(金華)県のソクソン(朔山)の地で、天の将軍は上着を脱いで馬にまたがり天国に上っていきました。4月9日のことでした。そして山の岩にその跡を残しました。

◆天の将軍、扶董天王(フードンティエンヴォン)を祀る

 フンヴン(雄王)は、その功を思い、扶董天王(フードンティエンヴォン)として尊敬し、故郷の村の家に廟を建てて、朝夕線香を絶やさないように、1,000マウ(360ヘクタール)の耕地を授けました。殷朝はその後代々644年間あえて出兵することはありませんでした。

 その後、李太祖(リータイトー)が沖天神王(スンティエンタンヴォン)を授け、扶董(フードン)村の建初(キエンソ)寺の隣に廟を建て、ヴェリン(術靈)山に像を彫り、春と秋に大祭を行いました。


 黎朝の淳(トァンデー帝)の治世中、フーロー(扶魯)村に吳芝蘭(ゴチ-ラン)という婦人がいて、よく本を読み、文学に通じ、詩歌が巧みでした。彼女はこの山を散歩している時、詩を作りました。

春の術靈(ヴェリン)に樹は芽吹き雲はたなびく
万の紫、千の紅、艶やかな世界
鉄の馬は天にあり、名は歴史に残る
英雄の威信は山河に満ちる

魚の精(グーティン)の伝説

 東海には、魚蛇の精(魚精(グーティン)とも言う)がいて長さは五十丈を越え、ムカデの足のように多くの足があり、あらゆる形に変化し、計り知れない大きな霊異を起し、動く時は嵐のような音が鳴り響きます。人間の肉を食べるので、誰もが恐れていました。
 昔に人間のように見える魚がいたのが、東海の岸に着いて人間に変わり、話し方を覚え、徐々に成長し、たくさんの息子や娘を産み、魚やエビ、フネガイやシジミをよく捕まえて食べていました。
 また蛋人(ダンニャン)または蜒人という族もいて、海岸の小島に住んで、魚を捕まえることを専門とし、それから人間になり、蛮人(山の人?)との籾、刀、斧(※塩米、衣裳、刀斧)の交易のために東海をしょっちゅう行き来していました。
 海岸には、石の歯がギザギザな魚精(グーティン)岩が横たわってありました。岩の下には洞窟があり、魚精(グーティン)はそこに住んでいます。波風は荒く、通る道はなく、人々は別の道を開こうとしましたが、固い岩を彫るのは困難でした。この場所を通過する民の船は、いつも魚精(グーティン)によって被害を受けます。
 ある夜、仙人たち(または超人たち)が、旅人が通り抜ける所を作るために岩を彫っていました。魚精(グーティン)は(それを邪魔するために)白いオンドリに変身し山の上で鳴きました。仙人たちはその声を聞き夜明けが来たと間違えて、空に飛んで行きました。今では、人々はその道を仏陀洞(ファットダオハン)と呼んでいます。
 龍君(ロンクン)は被害を受ける人を憐れんで、一艘の船に変身し、水府(トゥイフ)の鬼(ダートア)に海神が波を起こすのを禁じるよう命じた上で、魚精(グーティン)岩の洞窟の岸に漕いで行き、1人の人をつかんで、魚精(グーティン)に食べさせるために投げようとするふりをしました。魚精(グーティン)が飲み込むために口を開けると、龍君(ロンクン)は赤く焼けた鉄の塊を持って魚の口に投げ込みました。魚精(グーティン)は飛び上がって、船の上に落ちバタバタしました。
 龍君(ロンクン)は魚の尻尾を切り落とし、皮をはいで山を覆いました。その場所は白龍尾(バックロンビ)と呼ばれています。魚の頭は海の外に流れ出して犬になりました。龍君(ロンクン)は石を取って海を塞ぎ、それを切りました。犬の頭に変わったそれは、現在は狗頭山(カウダウソン)と呼ばれています。体は曼求(マンカウ)へ流れて、その場所は曼求水(マンカウトゥイ)または狗頭水(カウダウトゥイ)と呼ばれています。