付録第8話 貞烈な媚醯(ミエ)夫人の伝説
Phụ lục 8: Truyện bà phu nhân trinh liệt Mỵ

lang-mo-lang-My-E.jpgチャンパの皇后であったミエ夫人が
自分を欲しがる李太宗(リータイトン)に
文句を言う話。言い方がすごく怖くていいです。

最初、協正佑善夫人でのちに
貞烈が加わって協正佑善貞烈真猛夫人に変えています。
時代で貞操概念も変わったのかもしれませんね
この写真も法律新聞から

 ミエ(媚醯)夫人は占城(チェムタイン(チャンパ))国の王であるサーダウ(乍兜)の妻でした。 李太宗(リータイトン 1000-1054)は占城(チェムタイン)を倒し、サーダウ(乍兜)を斬り、ミエ(媚醯)を捕らえて連れ帰りました。リーニャンの川に着くと、王は使者に命じて夫人を女奴隷にしてはべらせようとしました。夫人は激しく怒り、白い織物をつかんで自分の体に巻きつけ、ホアンザン(黄江)川に飛び込んで死んでしまいました。

 霞のかかる早朝や月の出る夜にはいつも、その川の淵で嘆く声が聞こえます。我が国の人々は、礼拝するための寺院を建てました。

 その後、王たちはリーニャンの地を通過し、龍の船の玉座に座って川を渡り、寺院があるのを見て、臣下に聞きました。臣下は夫人の話について明らかにすると、王はかわいそうに思って言いました。「もし、その真実が神聖なものなら、夫人が私に知らせてくれるだろう。」

 その夜、真夜中になると、夫人は王に夢でお告げをしました。夫人は占城(チェムタイン)の服を身につけ、拝みながら泣きぬれ、嘆いて言いました。「私は女子の道を守ります。心は一つ腹は一つは夫といっしょです。サーダウ(乍兜)は陛下に並ぶ者ではありませんが、この地方では優れた人物です。私はいつも夫の恩義に感謝しております。最近、サーダウ(乍兜)は道をあやまり、上帝は天罰を下し、陛下の手を借りて処罰しました。それで国は粉々に消えました。

 私は日々夫の恩に報いたいのですが、機会がまだありませんでした。私は幸運なことに、ある日陛下にお会いできました。陛下は使者に命じて、私をこの川の流れに送りました。おかげで純潔を守ることができました。この恩は語り尽くせません。私には、神霊であるということを宣言するための、どのような法術もあります。陛下の耳に届く言葉は何でもあります。」言い終わると、夫人は忽然と姿を消し、その姿はどこにもなかった。

 王様は恐怖で目を覚まし、夫人を協正佑善夫人(ヒェップチンフーティエンフーニャン)としました。陳仁宗(チャンチュンフン)の時代に、夫人に対し、さらに烈婦としての貞烈の2字を加え、協正佑善貞烈真猛夫人とし、高潔な純潔さをほめたたえました。

付録第7話 藤州(ダンチャウ)の地の守り神の伝説
Truyện thần thổ địa Đằng Châu

李太祖(リータイトー)がまだ皇帝になる前に
土地の神の寺院を立てる話
その頃は皇帝の座を巡って殺し合いが大変な時代です
彼はお父さんがいなくて、お寺で育ったのだそうです

phuluc7 denmay.JPGVOV

 この神は元々は藤州(ダンチャウ)の地の古い廟の守り神でした。黎太祖(レータイトー)は、当時はまだ領主でした。そして軍を集めて、藤州(ダンチャウ)で新しい集落を作っていました。ある時、王が散策していると、この村に着き、川の真ん中を進んでいる船が、突然大雨と暴風に遭遇し、そこに停止しなければなりませんでした。

 王が、「川岸にある寺院は何か。何か霊能はあるのか。」と聞くと、答える者がありました。「それは藤州(ダンチャウ)の地の守り神の寺院です。この地の人々は河の州の雨が止むことを祈り、非常に霊験あらたかです。」王は大声で言いました。「もし大雨が降って、川のこちら側半分が止むならば、それは実に英霊である。」すると、あっという間に川の半分が雨になり、半分では止みました。王は畏敬の念を感じ、寺院の改築を命じ、香を焚き崇拝しました。

 村の人々には、このような詩があります。

立派な大王の大いなる威信よ、
藤州(ダンチャウ)の地に神霊は顕れる。
暴風も雨も侵すことはできない、
あちらでは雨が降ってこちらでは晴れる。

 王は、自分がうぬぼれた気持ちをもっていた事に気づきました。その後、黎臥朝(レーゴチェウ 986-1009)が亡くなって機会が訪れました。王は大事の策略を巡らそうとして、寺院に隠れ、霊能があらわれるのを待ちました。

 ある夜、夢の中に、異人が来て言いました。「望む意志を持っていれば、あなたは成功するでしょう。すべての方向は順調であり、万国は太平を享受し、3年の間、人々の事業は順調で7つの寺院は安定するでしょう。」王は夢から覚めましたが、まだそれが何を意味するのか理解できませんでした。その夢は吉兆だという人もいました。
 王はダンチャウ(藤州)を太平(タイビン)府として格上げし、開天城隍?(カイ ティエンタインホアン)大王をその神としました。重興(チュンフン 1285-1293)元年に、陳(チャン)朝は、カイティエンチャンコック(開天鎮國)の称号を与えました。

 寺院は堤防の内側にあり、しばしば洪水で浸水します。川沿いの村の人々は、いつも見守っていて、荷車や馬、雨傘、大笠をもち、堤防を守りにいくような姿の1人の人が仕えています。ですから堤防が低くても水が災いを起こすことはありません。

 何年もたって、川の水は寺院の高さまで上がって来ました。統元(トングエン 1522-1527)の丙戌(ビントゥァット)の年、村人たちは堤防の上に寺院を建てることを計画しました。全員が到着すると、寝殿がほぼ完成していました。郡役人も村人も草むらの丘の上で寝ました。すると誰かが地面を掘るための道具を持ってやってくるのが見え、お互いが仕事だと呼びあう声を聞きました。朝になると、柱や岩が堤防から離れて左に移動しています。本当に霊能あらたかです。
 その後、神々の行列の日に、コアイチャウの知事のホアンナムキムは寺院について次の詩を吟じました。

州の土地は実に雄大で
開天の社は水害を抑える。
社は本当の奇跡を起し、
一夜にして神の技で移動する。


 (興安(フンイェン)省?)キムドン(金洞?)県藤州(ダンチャウ)村の廟は、現在は雲王(ブアマイ)廟として知られています。

付録第6話 洪聖(ホアンタイン)大王の物語
Phụ lục6: Truyện đền thờ Hoàng Thánh Đại Vương

hoangthanh.PNG今回も、昔の英雄が神様になるお話しです。
主人公の巨倆(クルオン)の時代は
ベトナムの権力関係がとてもとても複雑なので
ひまがあれば年表と相関図を書いて理解したいと思います。

写真は法律新聞の記事です。裁定の神ですから。

 洪聖(ホアンタイン)大王は、黎大行(レーダイハイン 980-1005)帝の治世の范巨倆(ファムクルオン 944-984)のことです。巨倆(クルオン)は南冊(棚)(ナムサック ※海陽(ハイズオン))の人で、祖父はチェムと言い、呉(ゴ)朝のドン ザップ(銅甲?)将軍を務め、倆(ルオン)の父はマンといい、呉(ゴ)朝の南晉王(ナムタンブオン ※呉昌文 (ゴスォンバン)の治世中に高官を務め、兄のディンは、丁(ディン)朝の衛尉(えいい ベウイン)将軍でした。

 丁(ディン)帝がまだ幼かった頃、宋(トン)軍が侵攻してきました。大行(ダイハイン)は将兵を集めました。丁(ディン)太后は英雄を選んで宋の侵略者と戦うよう命じました。大行(ダイハイン)は巨倆(クルオン)を大将軍に任命しました。抵抗するために兵を上げて出兵する時、巨倆(クルオン)は将兵を支配し、大行(ダイハイン)を皇帝としました。倆(ルオン)は大尉の職につきました。

 李太祖(リータイトー1000-1054)の通瑞(トントゥイ)の年(1034-1039)、王は都護府に多くの疑わしい事があるのを知りましたが、役人はそれを解決しません。そこで王は自ら神を立て各案件の裁定に専念することを欲し、すべての策略がわかるよう霊験でそれを明らかにし、身を清め、香を焚き、上帝に祈願しました。

 その夜、夢を見て、赤い服を着た使者が、巨倆(クルオン)を都護府の各裁判官の主に任命するという神の上帝の命令を伝えました。王は使者に聞きました。「その者は誰で、役職は何でしょうか。」すると使者は答えました「黎大行(レーダイハイン)帝の時の大尉の職です」。王は夢から覚め、廷臣に聞きました。

 事が明らかになった時、倆(ルオン)を洪聖(ホアンタイン)大王としました。そして臣下に命じて、街の南門の西に寺院を建てさせ、洪聖大王(ホンタインダイブオン)と名を変えて崇拝しました。そして監獄の神として代々崇拝されています。

付録第5話 朔天王(ソックティエンブォン)殿を建てた国僧の伝説
Phụ lục5: Truyện quốc sư xây đền Sóc Thiên Vương

densoc.jpg本編にもある朔天王にちなむ道場(武殿)を
建てた話です。
写真はBáo Công An Nhân Dân

đền vũ 武殿 がよく出てくるんですけど
カンフーに出てくる寺みたいな
ものでしょうか??

 黎大行(レーダイハイン 980-1005)の時代に、匡越(クォンビェット)大師、すなわち吳真流(ゴーチャンリュー)は、よく平魯?(ビンロー)村を散策しました。ここの美しい静かな風景を好み、庵を建ててそこに住みました。

 真夜中、大師が夢を見ると、金をまとった神が、鉄の馬に乗り、左手に金の槍を持ち、右手に宝剣を持ち、十数人がしたがって、恐ろしげな表情で来て言いました。「私は毘沙門(ティサーモン)大王であり、従う者はすべて夜叉(ザトア)の神である。天帝は、私を北の国に送りそこにいる人々を守るよう命じた書を持っている。元々我々は互いに縁があったので、知らせるためにここに来たのだ。」

 大師が驚いて目を覚ますと、山から叫ぶ声が聞こえました。心の中が恐れでいっぱいになり、人を山に行かせ、頂上によい雲に囲まれた大木を見ると、それを切り倒し、職人に命じて夢で見た通りの神の像を作りました。その後、寺院を建て、香火を絶やさず崇拝しました。

 天福(ティエンフック)元年になると、宋(トン)軍が略奪に来るので、軍に行くように頼みました。その時、宋(トン)軍はタイケット村に駐留していましたが、両軍ともまだ交戦はしていませんでしたが、宋軍は見て非常に恐れ、退却して、大江(?ダイザン)を維持しました。再び波が荒れる時期になり、蛟龍が水面にあらわれ、敵軍は崩壊した。

 帝は神の霊を感じ、道場を建て、北を鎮めるために、朔天王(ソックティエンブォン)としました。寺院は金華(キムホア)県ヴェリン(術靈)村にありいつも崇拝が絶えることはありません。

 人々は董天王(ドンティエンヴォン)は敵を倒した後、鉄の馬に乗ってヴェリン(術靈)山のガジュマルの木まで来て、服を脱いで天国に昇って行ったと言います。今でも人々はこの木を「着替えの木」と呼んでいます。礼拝するときには、精進物だけを捧げます。

 李(リー)朝になると、崇拝の便のために、新しく道場が建てられました。西湖の東において、北を鎮めるためです。そして、福の神として崇拝され、西湖のニャットクアにあります。

付録第4話 正義の神龍肚(ロンド)の伝説
Truyện Thần chính khí Long Đỗ

Den_Bach_Ma.jpg現在ハノイの東門にある白馬殿の話です

 唐の時代、高駢(カオビェン)はわが国に駐留し、政府を占領し、王を宣言し、羅城を建てました。城を建て終えたばかりの時、ある早朝に駢(ビェン)が歩いて、東門の外を見ると、突然大雨が降り、強い風が吹き、地面から立ち上る五色の雲を見え、光がひらめきました。1人の異人が、色とりどりの上着を着て、多くの装飾品を身にまとい、赤い龍にまたがり、金の札を手にして、雲の中で浮遊して、気勢は高まり、長い間上に下に飛んで、やがて消えました。駢(ビェン)は驚いて、悪鬼に違いないと考え、祈るために祭壇を設置しようと考えました。

 その夜、夢に神人が現れてこう言いました。「疑うことはありません。私は妖怪ではありません。。龍肚(ロンド)の王の正義の神であり、新しい城ををよく見たくてここにあらわれただけです。」駢(ビェン)は目を覚まし、 翌朝、役人を集め嘆いて言いました。「我々はこの地の人々を服従させることができないのか。異国の鬼のような者に我々の見せたくない所を見られてしまうほどだ。」

 ある者が、千貫の鉄で神人の形をした彫像を鋳造し、お祓いをするよう進言するので、駢(ビェン)は従いました。呪文を読んだ途端、急に空も大地も夜のように暗くなり、雨と風が激しく吹き荒れ、鉄像は崩れ落ち空中に飛んで行きました。駢(ビェン)は怖くて北に戻りたくなりました。当時の人々は不思議な事だと驚き、城の東側に寺院を建てました。

 その後、李太祖(リータイトー)が首都をここに置き、城塞を建設すると、神人があらわれて祝福する夢を見ました。王は言いました。「百年の間、人が香火を絶やさずにいられるだろうか。」すると答えがありました。「皇帝が万年長生きされますように。神への崇拝は百年だけではありません。」王は目を覚まし、動物を殺して犠牲にささげるように命じ、昇龍城隍大王(タンロンタインホアンダイブオン)としました。

 当時、東門では市場が開かれており、神を祭る殿は長い通りの並びに置かれていました。通りはたびたび火災に見舞われ、猛烈な風が多くを焼きました。ただ殿は火事に遭わずにそのまま残っていました。王は殿が禄を得るようにして、新春の祭りをすべてここで行いました。3度火災にあいましたが、まだ焼けたことがありません。

大王霊の偉大な文が伝わり、
今日までも鬼たちは恐れる。
3回の火でも燃えることなく
風雷は戦いの嵐をあげる。
悪霊を退治する指揮を行い、
何十万もの兵士を一吹きで全滅させる。
北の侵略者に正義の力を示し、
永遠に平和な世界を築く。

 陳(チャン)朝では、これをトゥアンドゥトゥウン大王としました。壽昌(トースオン)県の河口(ハーカウ)地区にある寺院は、現在、白馬(バックマー)殿と呼ばれています。

LE HOI DEN TAM GIANG_00_02_49_14_Still019.jpg付録は神社仏閣の由来の話が多いです。
日本もそうですが、神社仏閣好きが多いんでしょうか?

写真はĐền Tam Giang(THÀNH PHỐ VIỆT TRÌのWebより) 

 白鶴川の神はきわめて霊験あらたかです。唐高宗(ドゥオンカオトン)時代の永徽(ビンフイ)の年(650~655年)、リートゥンミン(李常明?)は峰州(フォンチャウ)の都護職に就き、この土地が千里にも広がり、山と川に囲まれているのを見ると、白鶴川のほとりに道聖霊館?(ダオタインリンクアン)を建て、礼拝できるように、中に三清(道教の3人の神)の像を置きました。  

 そして、館の前と後ろにも小寺院を建て、崇拝の像を作りたいと思いましたが、誰の彫刻にするかをわからなかったで、香を焚いて祈って言いました。「ここにいる神よ、霊応があるなら、姿を現してください。私たちはそれにしたがって像を作り、前の小寺院にそなえますから。」

 その日の真夜中に、彼は夢で2人の異人を見ました。外見は偉大で、美しく風雅で、どちらも護衛の兵士を従えており、前方では歌い、後方では叫び、トゥオンミンの方に向かってきて、小寺院に陣取るよう互いに戦っています。トゥオンミンはたずねました。「あなた様の姓と名は何ですか。どうか私たちが礼拝できるように教えてください。」  2人にはそれぞれ姓と名がありました。1人は石卿?(タックカイン)、1人は土鈴(トーレイン)です。トゥオンミンは才と技を競うよう頼みました。もし勝れば、その人が小寺院の前に置かれます。石卿?(タックカイン)が声に応えて走り、川岸に到着すると、川の上に土鈴(トーレイン)が先に着いているのが見えました。トゥオンミンは、夢の通りに、その形に彫像を作るよう彫り師に命じました。

 土鈴(トーレイン)は前の小寺院の位置を得ました。神は霊験あらたかで、偉大で、峰州(フォンチャウ)の人々はみんなおそれ敬い、線香を焚いて崇拝しました。神は3つの川の守り神です。崇拝するならその霊験はひとしくあらたかです。陳(チャン)朝は、それを忠翼(チュンドゥック 功があった人の死後の敬称?)武烈補国現咸王?としました。

 当時、学者の阮士固(グエンシーコー)は、王のお供として埃牢(アイラオ)に行き、ここに来て詩を作りました。

宝竜と護符が争い、 副将軍の話が残る。
謙虚な書生に望みはなく、 ただ今は平和を祈る。

 また、学者の王務成(ブォンブタイン)もお共に行き勝利し、祝賀の詩を詠みました。

雄大な勇敢な千の軍隊、 バンナムの外で、城は圧倒される。
なぜあなたは川に言い続けるのか、 風はタンの兵に鶴の声を運ぶ。

 この寺院は白鶴川の合流点にあり、白鶴川にはアンブー(鯉の一種)という魚の数十にもなる群れがいます。冬になると、漁師は魚を捕るために網を投げます。川の中にはこの魚以外はいません。アンブーは鯉のようで、匂いも味がよく、和え物やたたきを作るのに非常に便利で、最高級の食べ物です。 魚を捕ることができたら、人々は王の所にもって行き、売買は禁じられています。

アインブー魚は青い波の上、水を求めて踊る。

付録第2話 武寧(ヴーニン)の皋(カオ)将軍の伝説

安陽王(アンズォンヴォン)の時に出てきた皋魯(カオロー)将軍の話
付録は漢文がないので漢字名称がわかりません。

 将軍皋魯(高魯カオロー)は、武寧(ヴーニン)県の出です。安陽王(アンズォンヴォン)の時代、将軍は金亀神の爪を得て、霊光(リンクアン)神機の石弓を作りました。それを敵に向けるだけで、敵の軍隊はあえて近づきませんでした。将軍は何度も敵を撃退し大きな功績を残しましたが、後にラック侯に中傷され、追放されてしまいました。
 高駢(カオビェン)が南詔(ナムチェウ)軍を破って戻ったとき、武寧(ヴーニン)省を通り、ある場所に着きました。夜寝ていると、夢に9尺の高さの異人があらわれました。顔は毅然として、髪は結び、赤い服を着て、姓と名を名乗り言いました。「私は過去に安陽王(アンズォンヴォン)を支持し、敵を殺して大きな功績を作ったが、ラック候に妬まれ、排除された。死んだ後に上帝が無実な私と忠実な心を哀れんで、私をこの山河の兵士の武官、司令官としたのだ。盗賊を征伐する仕事と、そして畑を耕す農業と、私は両方をの責任がある。今は、逆賊を鎮圧するためにあなたに従い、天下は再び平和になった。あなたは本拠地に戻ったら、このことに礼を尽くさないと礼に反する。」
 駢(ビェン)は驚いて、なぜラック侯は嫉妬したのかと聞きました。異人が「明かすのは都合が悪い」と答えると、駢(ビェン)は幾度も頼みました。すると「安陽王(アンズォンヴォン)は金の鳳凰の精、ラック候は白猿の精、鳳凰と猿は相性が良く、龍とは相性が悪いので嫉妬するのです。」と答えました。
 言い終わると雲に乗って去って行きました。駢(ビェン)は夢から覚め、武寧(ヴーニン)の名を心に刻みました。そして部下にも知らせ、自身で詩を作りました。

交州(ザオチャウ)の地の美しさ、悠久の千年の長さ.
古代の知恵の賢者と会い、共に相反しないことを誓う。

 そして次のように吟じました。

百越がしっかりと手を握り、3つの軍隊が戦いを片付けた。
神人たちが正義を助け、唐家が100年続きますよう。

 候の家来のカオビェン(Cao Viên)は、駢(ビェン)を祝福して言いました。

南越(ナムヴェット)のいにしえの山河、
唐(ドゥォン)家の新しい人。
高氏は気高く、志気は高く、
龍神が助ける。

南越(ナムヴェット)の山河は美しく、龍王は気迫あり、
交州(ザオチャウ)の人は悩むのを止め、再び平和を見つける。

 高駢(カオビェン)はその後、神に美しい称号を与え、それは大灘都魯石神(?ダイタンドーロータックタン)で、年中、お供えが絶えることはありません。
 武寧(ヴーニン)の社すなわちザーディン殿では、大灘(ダイタン)の奥深くに龍王(ロンブォン)によって掘られた洞窟があります。洞窟内の流れは、舟をひっくり返すほどの強い渦を持っています。もし初めに神社に参ってから、その後で洞窟を通過するなら、その人は無事です。
 陳(チャン)朝の時代、神はクアギ(果毅?)の地位に昇進しました。大王の主要な神(クンチンウエフエ)です。この神社は、ザーディン県のダイタン村にある都魯(ドーロー)神社と呼ばれることがよくあります。もう一つの神社がドゥオンアン県フックカウ村チャンリェット地区にあります。

 この話は東南アジアで有名な「ラーマヤナ」の話だと思うんですけど、
妙に省略しすぎじゃないですか?妃をサルの軍隊と協力して取り返して
さらに妃の貞操も火の上でチェックしてと、とても長くて有名な話なのに。

ramayana.jpg 上古の昔、南越(ナムヴェット)甌貉(オーラック)の隣には妙岩(ジェウギェム)国がありました。その国の領主は夜叉(ザトア)王と言い、長明(チュンミン)王あるいは十頭(タップダウ)王とも呼ばれていました。
 この国は、北は胡猻精(ホートンティン)国に接していて、胡猻精(ホートンティン)国には十車(タップサー)王という王がおり、皇太子は曰微〔徵〕(ビーバー)でした。曰微(ビーバー)の妻、白静(バックティン)后娘で、世にもめずらしい美女でした。夜叉(ザトア)はそれを聞いて、胡猻(ホートン)を攻めるよう命じ、曰微(ビーバー)の妻を奪いました。
 曰微(ビーバー)はとても怒って、猿たちを連れて山を破壊し、水を平に埋めたて、妙岩(ジェウギェム)国を攻撃し、夜叉(ザトア)王を殺し、妻を奪い返して帰りました。
 胡猻精(ホートンティン)は猿の精で、今は占城(チャンパ)国です。

第2巻第22話 烏雷(オーロイ)の伝説 
●麻羅(マーラー)神が武氏(ブーティ)を妊娠させる
●烏雷(オーロイ)仙人から声色(せいしき)の才能を得る
●烏雷(オーロイ)、帝に頼まれて郡主のしもべになる
●郡主が烏雷(オーロイ)を愛し、策略で宮廷に上がる
●烏雷(オーロイ)明威(ミンウア)王に殺される

 不倫の子として生まれた黒い肌の烏雷(オーロイ)が、声と色の才能を得て、
王女たちと浮名を流し、ついには殺されるという話。
声色(せいしき 美しさ色情)が男子にとっても何よりも美しいのだという、
妙に感動的な話です。
 そしてこの話でわかるのは、昔の王女たちは、宮殿にいても
好き勝手に恋愛していたという事です。実にいいですね。
お父さんたちは喜んではいなかったようですが。

●麻羅(マーラー)神が武氏(ブーティ)を妊娠させる
 陳裕尊(チャンズトン)帝の紹豐(ティエウフォン)6年、麻羅(マーラー)村の人で鄧士瀛(ダンシーゾアイン)が安撫使(アンフーシー)の命を受け、北の国に渡りました。彼の妻の武氏(ブーティ)は家にとどまっていました。この村には社があり、麻羅(マーラー)神を祀っています。この神の精は夜な夜な士瀛(シーゾアイン)に変化し、体の形も、歩き方立ち方の姿勢も、まったく士瀛(シーゾアイン)そのままに真似をして、武氏(ブーティ)の部屋に入って彼女と通じ、雄鶏が鳴くと去って行きました。
 次の夜、武氏(ブーティ)はたずねました。「だんな様は北に使者として行ったのに、なぜ毎晩戻ってきて、日中は見えないのですか。」。神は嘘をついて「帝は私の代わりの者を差し向けたのだ。私をそばに仕えさせて、いつも碁を打つので、外に出られない。しかし、私は夫婦の情を忘れられず、あなたを愛するために、夜こっそりと帰って来ている。夜が明けたら急いで宮廷に行かなければならないから、長居はできない。」そして雄鶏が鳴くと去って行きました。武氏(ブーティ)はこれを疑問に思っていました。

●烏雷(オーロイ)が生まれ帝の寵愛を得る
 翌年、士瀛(シーゾアイン)が使いから戻ると、武氏(ブーティ)は妊娠して月が満ちていました。士瀛(シーゾアイン)は帝に訴え、武氏(ブーティ)は投獄されました。夜、帝の夢の中で、神人が来て言いました。「私は麻羅(マーラー)神で、武氏(ブーティ)を妻として子をなしたが、士瀛(シーゾアイン)に子を取られそうになっている。」帝は夢から覚め、翌日、牢獄の役人に武氏(ブーティ)を連れてくるように命じ判決を命じました。「妻は士瀛(シーゾアイン)に返し、子どもは麻羅(マーラー)に返す。」
 3日たって武氏(ブーティ)は黒い袋を生み、破れて1人の男の子が出てきました。肌は墨のように真っ黒でした。12歳になると、曰烏雷(ハーオーロイ)と名付けられました。色は漆のように黒く、肌は膏薬のように艶々していました。15歳になると、帝は彼を宮廷で召し抱え、寵愛し賓客のように扱いました。
●烏雷(オーロイ)仙人から声色(せいしき)の才能を得る
 ある日、烏雷(オーロイ)は西湖に遊びに出かけ、仙人の呂洞賓(ラードンタン)に会いました。呂(ラー)は聞きました。「小さな男の子よ、何が欲しいのですか。」雷(ライ)は答えました。「今の帝の天下が太平で、国家が無事で、富貴が浮雲のように見え、ただ声色(せいしょく 美しい色と声)に耽溺し、耳を喜ばせ目を楽しませることです。」洞賓(ドンタン)は笑って言いました。「あなたは声色を好むようだ。それで得る物と失う物は同等で、名は後世に残るでしょう。」そして烏雷(オーロイ)に口を開けさせました。烏雷(オーロイ)が口を開くと、洞賓(ドンタン)は唾を吐いて飲み込ませると、空を飛んで行きました。
 それ以来、烏雷(オーロイ)は字は識りませんが、聡明で頭の回転が速く、しばしば宮廷の人の冗談を言い、多くの詩や歌を作り、詩を吟じ歌を歌いました。詩歌を吟ずる声は、風や月を嘲弄し、美しい声は梁を巡り雲をとどめ、どんな人も驚かせました。婦女子は特に喜んで、誰もが彼と知り合いたいと願いました。
 帝は廷臣たちにこう命じました。「今後、烏雷(オーロイ)が誰かの家の女子を犯すのを見て、直前に捕まえるなら、一千貫の褒美を授ける。もし彼を殺す者がいたら、一万貫の賠償金を支払はなければならない。」帝がしばしば彼を従えて遊びました。

●烏雷(オーロイ)、帝に頼まれて郡主のしもべになる
 その頃、仁睦(ニャンムック)村に、高貴な血筋の郡主がいて、名は阿金(アーキム)といい、23歳になったばかりでした。夫は早く亡くなり未亡人で、彼女の美しさは世に比べるものがなく、帝はこれを喜び、彼女を求めましたが得られず、いつも怒っていました。それで試みに烏雷(オーロイ)に聞きました「お前に私を満足させる計画はないか?」烏雷(オーロイ)は答えました。「私は1年間の期間をいただきたく思います。もし戻ってこなかったら、それは失敗で、私は死んでいます。」そして、別れの言葉を言って去りました。
 彼は帰って服を脱ぎ捨て、泥に浸り、太陽と雨にさらされて醜くなり、布のズボンをはいて、馬を引く者のなりをしました。竹籠を1つ担いで、キンマの包みを入れて、郡主の家に向かいました。キンマの一包みを賄賂として門番の子どもに渡し、草をからせてくれるよう頼み、中に入りました。
 時は5月か6月、茉莉花の花が真っ盛りで、烏雷(オーロイ)はそれらをすべて刈り取り、竹籠に入れました。領主の婢(はしため)は、庭の花がすべてなくなっているのを見て、烏雷(オーロイ)を捕まえて縛るように命じ、主人が来て賠償するのを待ちました。
 3、4日立ちましたが、誰も彼を引き取りに洗われませんでした。婢(はしため)は尋ねました。「あなたは何家のしもべですか。なぜ主人が来てそれを賠償しないのですか。」烏雷(オーロイ)は答えました。「私は放浪者で、主人もなく、父母もなく、いつも人と物を運び、食べ物を求めて歌います。昨日、1人の役人が街の南門で馬をつないでいて、馬は空腹で草はありませんでした。馬の主が5文くれて草を刈るように言いました。草刈りでお金をもらって喜んで、茉莉花の花が何なのかわかりませんでした。今は払うものがないので、しもべとなって働きこの責任を償います。」
 門の外で烏雷(オーロイ)は留めらて1か月余りがたち、婢(はしため)は烏雷(オーロイ)が腹を空かせているのを見て、食べ物と飲み物を与えました。烏雷(オーロイ)は夜になると門番に歌を歌い、家の奴婢(ぬひ)たちも、中で働く女性たちも皆耳を傾けます。
 ある夜、日没後なのに明かりが点いていませんでした。郡主は暗闇の中に手探りで座して、近くに誰もいなかったので怒って、奴婢(ぬひ)たちを呼んで前に来させ、叱責し、鞭をつかんで打とうとしました。奴婢(ぬひ)たちはみな頭を下げて謝りました。「私たちは草刈りの奴隷の歌声を聞き、心は喜びのあまり、戻るのを忘れてしまいました。」郡主は罰を与えるのをやめてこれを不問にしました。
 その夏は暑く、真夜中に、郡主と婢たちは庭に座って、風に当たり月を眺めて、涼んでいました。突然、壁の向こうから、烏雷(オーロイ)の歌声が静かに聞こえてきました。天の調べさながら、この世のものとは思われない、精神は魅惑され、感情が感動させられ、愛と喜びがありました。郡主は奴婢(ぬひ)に命じて烏雷(オーロイ)をしもべとして家に入れ、そばにはべらせて親しみました。
 郡主は、しばしば烏雷(オーロイ)に憂さを晴らすために、詩を作り吟ずるように言いました。烏雷(オーロイ)はそれを受け心から仕え、郡主はますます彼を愛し信頼し、日中は自分の指揮(幕)の中で、夜は明かりをつける役としてそばに仕えさせました。

●郡主が烏雷(オーロイ)を愛し、策略で宮廷に上がる
 彼に歌うことを命じると、歌声が内外に鳴り響き、郡主は感動が過ぎて、憂鬱の病にかかってしまいました。3、4か月が過ぎ、病はだんだん重くなりました。婢(はしため)も長時間仕えて疲れて夜は熟睡してしまい、郡主が呼んでも誰も起きません。
 ただ烏雷(オーロイ)1人だけが仕えていて、郡主は情愛を抑えることができず、密かに言いました。「あなたは私のそばによりなさい。私はあなたの声のために病気になったのです。」そして烏雷(オーロイ)と情を通じ、病は治ってしまいました。
 情愛は日ごと深まり、郡主は彼の醜い姿を気にとめず、何を惜しむこともなく、すべての土地を烏雷(オーロイ)に与え農場をさせたいと願いました。烏雷(オーロイ)は言いました。「元々私には家がなく、今、天の仙人である郡主に出会い、それは私の幸福です。私は土地や金銀珠宝は欲しくありません。ただ願うのは郡主が宮廷に入り、金と翡翠がはめ込まれた冠をかぶることです。それを見ることができるなら死んでも安らかです。」
 (金と翡翠がはめ込まれた冠は先帝が与えたもので、宮廷に上がるときだけかぶります。彼女は烏雷(オーロイ)を愛しているので、何も惜しくありませんでした。)
 烏雷(オーロイ)冠を手に入れると、こっそり宮廷に行きました。帝はそれを見ると喜んで、すぐに郡主が朝廷に上がるよう命じ、烏雷(オーロイ)にもう一方の金と翡翠がはめ込まれた冠をかぶって隣に立つように頼みました。帝は郡主に聞きました。「あなたは烏雷(オーロイ)を知っていますか。」その時、郡主はとても恥ずかしくなりました。
 当時、国語(クォックグー)の詩がありました。

身を隠し、行ってしもべになることを求め
道を外れ天仙は雷(ロイ)を祝福する

 それ以来、烏雷(オーロイ)は天下に知られわたり、美しい王女たちはいつも烏雷(オーロイ)にからかわれました。
 国語(クォックグー)の詩が言います。

汚れた顔謙虚な表情、
街の人々は皆あなたを切望する
腕輪は黄金色に輝き、
世界が賞賛の眼差しを向けるのを待つ

 人々は烏雷(オーロイ)をからかうために詩を書きますが、美の誘惑のために彼を避けることができません。烏雷(オーロイ)しばしば宮廷の娘たちと通じましたが、帝が賠償を求めることを恐れて、誰もあえて倒すことをしませんでした。

●烏雷(オーロイ)明威(ミンウア)王に殺される
 その後、烏雷(オーロイ)は明威(ミンウア)王の長女と通じて、捕えられましたが、殺されませんでした。翌朝、明威(ミンウア)王は宮廷に来て、「昨夜、烏雷(オーロイ)私の家に忍び込みました。白黒がわからなかったので、殺しました。それで、私に何千貫を収めなければならないか教えてください。」 帝は烏雷(オーロイ)がまだ生きていることを知らずに言いました。「雷(ロイ)が殺されたのなら、私に何ができるだろう。」当時、徽慈(ヴィートゥ)皇后は明威(ミンウア)王の実の妹だったので、帝はくわしいことを聞きませんでした。威(ウア)王は戻って杖で雷(ライ)を打ちましたが、彼は死なず、王は杵を取っ手殴り殺しました。
 死にそうになったとき、烏雷(オーロイ)はクォックグー(口語)の詩を吟じました。

生と死は天に支配され、
男子は英雄として生きることを願う。、
声と色のために死ぬ事は喜びで、
病苦や糟糠のために死ぬのではない

 そして言いました。「昔、呂洞賓(ラードンタン)は私の声色はで、得るものと失う物は同等だと言いました。その言葉は真実です。」言い終わると彼は死にました。

もと漁師だった空路(コンロ)と覺海(ザックハイ)が、法術を身につけ、帝に重用される話。でもこの法術ヤモリを落としたり、体が宙に浮いたり、余り役に立たなそうです。
○空路(コンロ)の修行
○覺海(ザックハイ)の修行
○覺海(ザックハイ)と通玄(トンフェン) 呪術でヤモリを落とす
○覺海(ザックハイ)宙に浮く
○覺海(ザックハイ)の入滅

○空路(コンロ)の修行

 海清(ハイタイン)県嚴光(ギェムクアン)寺の禅師空路(コンロ)は、姓は楊(ズオン)という海清(ハイタイン)の人です。何世代にもわたって魚を捕る仕事をしていましたが、仕事を辞め出家して、いつも伽羅尼門(ザーラニモン)経を詠んでいました。

○覺海(ザックハイ)の修行

 彰聖嘉慶(チュオンタインザーカイン 1059-65)の年、李神宗(リータントン 1127-1138)の時代、覺海(ザックハイ)は道友(道を持って交わる人)のため、荷澤(ハーチャック)に隠遁し、この身のことをすべてかまわず、どこにも行かず、中で禅の修行をしていました。

 突然、心神、耳目が、すっきりと明るくなり、空を飛んだり、氷の上を歩いたり、虎を捕まえて服従させたり、龍を捕まえて倒したり、奇怪千万で、計り知れません。そして住んでいる地域で寺院を見つけて、そこに住みました。

 ある日、従者が申しました。「私がここに来て以来、師から必要な事を教わったことがなかったので、次の詩をお聞きください。」

心と体を鍛え、よい精を得た。
暗い中を来て庭で立つ。
誰か空の法則を問う人あり、
屏風に座って影が映る。

  すると師は言いました。

「あなたが歩いてくるなら、私はあなたを導きます。あなたが水から来るなら、私はあなたにそれを与えます。あなたが道を求めるのに、私が「必要」について伝えない場所はありません。」 言い終わると大きく笑いました。

 師はしばしばこの詩を詠みました。

選ばれし蛟龍は地の中に住む、
野生は一日中喜びに満ちている。
時には孤高の嶺に行き、
寒きに長い咆哮をする。

 師(空路(コンロ)?)は、會祥大慶(ホイトゥオンダイカイン 1110-111910年の已亥(キーホイ)6月3日に亡くなり、弟子たちは遺体を火葬し、寺院の門に葬りました。王はこの寺院を拡張するようお触れを出し、20世帯が寄進するようにしました。

○覺海(ザックハイ)と通玄(トンフェン) 呪術でヤモリを落とす

 覺海(ザックハイ)禅師は、青海(ハイタイン)の人で、延福(ジェンフック)寺に住んでいて、姓は阮(グエン)氏です。小さな時から魚取りを好み、いつも小舟を家にして、海や川の上に浮かんでいました。25歳になって仕事を辞め、頭を剃って出家しました。最初は禅師空路(コンロ)を師として崇め、荷澤(ハーチャック)寺に行って、空路(コンロ)の法を尋ねて帰りました。

 李仁宗(リーニャントン)の治世中、師は通玄(トンフェン)真人(悟りを開いた人)と共に、しばしば帝のお召しを受けてそばに使えるために、涼石(ルオンタック)の地の蓮甕(リエンモン)寺に行きました。

 ある日、突然、ヤモリのつがいがお互いに呼び合い、耳に痛く聞こえなくなりました。王は通玄(トンフェン)に止めるよう命じ、玄(フェン)が静かに呪文を唱えると、1匹が先に落ちました。王は笑って言いました。「さあもう1匹残っています。師よどうか呪文をお願いします。」師が呪文を唱えると、あっという間にもう1匹も落ちました。

 帝は驚いて、この詩を作りました。

覺海(ザックハイ)の心は海のごとく、
通玄(トンフェン)の道も奥深い。
神の変化の能力に通じ、
一仏一神仙である。

  それ以来、僧侶の評判は天下に響き渡り、僧侶も俗人も尊敬しました。帝は師として彼を尊敬し、何か喜ばしいことがある度に、海清(ハイタイン)に行き、必ず寺に詣でるようにしました。

○覺海(ザックハイ)宙に浮く

 ある日、帝が師に言いました。「本当の霊的成就を聞かせてもらうことができますか。」すると師は経を8回唱え、体が宙に舞い、地面から5丈になってまた降りてきました。帝と大臣たちは皆一斉に手をたたき、宮殿に出入りできる輿を与えました。

 神宗(タントン)帝の治世中、帝は何度か彼を都に召喚しました。師たちは年を取り弱った事を理由に出向きませんでした。

 ある僧侶が尋ねました。「仏と衆生、誰が客で誰が主人なのでしょう。」師は言いました。

頭が白い事に気がつかず
あなたに客を送ることを告げる。
もし仏界の境なら、
龍の門に額があたる。

○覺海(ザックハイ)?の入滅

 彼が死にかけているとき、彼は彼らに詩を作りました。

春が来て花も蝶もよく時を知り、
花と蝶は時期に応じる。
花も蝶も本来はみな幻、
花や蝶を心に留めるとしても。

 その夜、部屋の南西隅に五丈の大きな流れ星がありました。次の朝、師は座って亡くなりました。帝は30世帯が今後寄進するよう命じ、師の2人の子に報酬として官職を与えました。

 陳太宗(チャンタイトン)の代に、海清(ハイタイン)を天清?(ティエンタイン)としました。天長(ティエンチュオン ナムディン省の古い遺跡)のことです。