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木の妖魔の伝説

 古代の峰州(ダットフォン)の地に、旃檀(チエンダン)と呼ばれる大きな木がありました。高さは千ひろ(3330m)を超え、枝葉は生い茂り密集しているので、何千里あるのかもわかりません。鶴が飛んできて止まる(一説では巣を作る)ので、この地は白鶴(バックハック)と呼ばれていました。(Vĩnh Phúc省Việt Trìの近く)
 何千年を経て、木は枯れて妖魔となり、しばしば形を変え、強く勇気があり、人を殺し、動物に危害をなすことができました。
 涇陽王(キンズォンブォン)が鐘の術を使って木の精を打ち負かすと、少しおとなしくなるのですが、またあちこちに現れ、計り知れないほど変化し、よく人を取って喰います。
 人々は毎年の終わりの大晦日までに祭壇を建てなければなりません。慣習に従って、生きている人(犠牲)を捧げるために運ぶと、人々が平和でいられるのです。人々は妖魔を猖狂(スォンクォン)神と呼びます。
 この土地の南西の国境は獼猴(ミーハウ)国(チャンパ)に接していました。雄王(フンヴォン)あるいはその国王は、現在の演州(ジェンチャウ)府の婆露(バーロ)蛮人に命じ、毎年、峡谷に住んでいる獠子(ラオトゥ)(少数民族のこと)に犠牲をやめさせるようにしましたが、決まりを変えることはできませんでした。
 秦始皇(タントゥイホアン)になった時、任囂(ニャムヒェウ)が龍川(ロンスエン)の長官に任命されて、生きる人を犠牲にする旧弊を改革すると、猖狂(スォンクォン)神は腹を立てヒェウ(囂)を呪い殺したので、結局、その後さらに入念に祀らなければならなくなりました。
 丁先皇(ディンティエンホアン)王の治世に、北の出身の法師、文俞祥(ヴァンズートゥオン)がおりました。徳を積み高潔で、多くの国を旅し、蛮人の言葉に通じ、金の牙と青銅の歯を作る技術を習得していました。年齢は80歳以上でしたが、この南の国に渡って来ました。
 先皇(ティエンホアン)は法師と師弟の儀式を行いました。法師は猖狂(スォンクォン)神に見せて喜ばせる術を教え、かれを殺すように言いました。
 この見世物には、尚騎(トゥオンキー)、尚竿(トゥオンキー)、尚險(トゥオンヒエム)、尚鈎(トゥオンダット)、尚韃(トゥオントアイ)、尚碎(トゥオンカウ)があります。毎年11月になると飛雲樓(ロウフィバン)が作られます。高さ20尺(または50尺)、中に1本の木を立てて、麻の皮で編んだ長さ136尺、太さ2寸の大きな綱を張り、そして籐を編んで外側を結び、両端は地面に埋めて、真ん中を木の上に上げます。
 尚騎(トゥオンキー)は綱の上に立ち、3、4回疾走し、落ちることなく行き来します。頭には黒いはちまきを付け、体には黒いズボンを着ています。
 尚竿(トゥオンカン)の綱の長さは150尺で、3つに分かれる所があります。2人は両手で各自旗竿を持ち、綱の上を歩いてきて分岐点で出会うと、お互いかわして上がったり下がったりして、決して落ちません。
 尚韃(トゥオンダット)は、幅1尺3寸、厚さ7寸の大きな木の板を、高さ17尺3寸の木の上に置き、上に立っている韃(ダット)は2度3度と跳ね上がり、前に後にひっくり返ります。
 尚碎(トゥオントアイ)は竹を使って、長さ5尺、径が4尺のびくのような形のかごを作り、這い入って、立っては転がります。
 尚鈎(トゥオンカウ)は手をたたいて(または合わせて)、飛んで踊り、大声を出し叫び、手足を動かし、太ももに触れたり、お腹をさすったり、上下に動かしたり、また馬に乗って走り、身をかがめて地面に落ちることなく物を拾ったりします。
 尚險(トゥオンヒエム)は仰向けになり、体で長い棒を支え、そこに子どもを登らせ落とすことはありません。
 歌手たちが歌うときは、鐘をならし太鼓をたたき、みんな騒々しく歌い踊ります。また獣を殺して犠牲に捧げます。
 猖狂(スォンクォン)神がついにそれを見に来たので、法師は秘密の呪文を唱え、剣を取って切りました。猖狂(スォンクォン)神とその家来は全員死んで、もはや妖魔に戻ることはできませんでした。 毎年の犠牲の祭りはなくなって、人々は昔と同じように平和に暮らしました。