後半では、道行(ダオハイン)が候の夫人を妊娠させ、生まれ変わり、帝の養子となって皇太子になり、次の皇帝になり、でも病気になって、かつての弟子明空(ミンコン)に治してもらいます。
○道行(ダオハイン)が夫人を妊娠させ、入滅する
○道行(ダオハイン)は生まれ変わり帝になる
○道行(ダオハイン)と明空(ミンコン)の因縁
○明空(ミンコン)が不思議な力を示す
○明空(ミンコン)が道行(ダオハイン)の重病を治す

○道行(ダオハイン)が夫人を妊娠させ、入滅する

 路(ロ)はそのまままっすぐ侯の邸宅に行き、夫人の沐浴所に向かうと中を見渡しました。夫人は非常に怒り、候に言いつけましたが、候はその意味を理解していて、何も聞きませんでした。夫人は妊娠しました。路(ロ)は候に言いました。「夫人の出産の時が来たら、必ず事前に知らせてください。」

 出産の時が来て、路(ロ)は知らせを受け、風呂に入って服を着替え、弟子たちに言いました。「私の宿因(因縁)は終わっていない。私は再びこの世に生まれ変わらなければならず、しばらくの間王になる。寿命になって死ぬ時は、二十(二十二)天神(20人の神が悪鬼を退治すること)を行う。もしこの身が壊れて土になるのを見たら、それは私が泥中に入ったので、もはや生きておらす入滅したのだ。」弟子たちはそれを聞いて、誰もが感動して涙を流しました。

 路(ロ)は禅詩を詠みました。

秋が来て、雁の帰還が報じられない、
悲しむ人々の中で静かに微笑む。
弟子たちに執着しないよう伝え、
古い師は幾度も今の師となる。

○道行(ダオハイン)は生まれ変わり帝になる

 詠み終わると、そのまま亡くなりました。候の夫人はついに男の子を産み、陽煥(ドゥオンホアン)と名付けました。3歳になると、仁宗(ニャントン)帝は彼を宮中で育て、皇太子にしました。仁宗(ニャントン)が亡くなると、皇太子は即位して神宗(タントン)帝となりました。それは路(ロ)の生まれ変わりです。

 路(ロ)の亡骸は、寧山(ニンソン)県の佛迹(ファットティック)山にある天福(ティェンフック)寺の岩の中に今も安置されています。

○道行(ダオハイン)と明空(ミンコン)の因縁

 さて、その昔、長安(チュオンアン)の地の大黃(ダイホアン)(または嘉遠(ザーヴィェン))県の潭舍(ダムサー)村では、國清(クォックタイン)寺に阮至誠(グェンチータイン)と言う人が住んでいました。僧名は明空(ミンコン)国師と言い、若い頃に遊学し、道行(ダオハイン)(路(ロ)の事)に出会い、教えを学ぶこと10年以上になります。道行(ダオハイン)は、彼の不屈の心がけをほめ、悟りの印を与え、この名を与えました。

 道行(ダオハイン)はこの世を去る時、明空(ミンコン)に話しました。「かつて私の尊師は修行を果たしたが、なお切り傷の報いを受け続けた。この暗く難しい末世で、どうして自分を保つことができるのか。今、世に出ようとしている私は、人の上に立つ立場でいながら、生まれ変わった後の病気の苦しみは避けることができない。あなたとは縁があるから、互いに助け合い救うのだ。」そして道行(ダオハイン)は世を去り、明空(ミンコン)は古い寺に戻り、畑を耕しました。

○明空(ミンコン)が不思議な力を示す

 20年以上、何の新しい知らせもありませんでした。その頃、李神宗(リータントン)(道行(ダオハイン)=路(ロ)の生まれ変わり)は突然奇妙な病気にかかり、精神は錯乱し、痛みと恐怖で大声で叫びました。天下の良医が呼ばれて来て、その数、数千数万になりましたが、なすすべがありませんでした。時に歌を謡う小さな子がいました。「天子の病を治したいなら、阮明空(グェンミンコン)を得なければ。」朝廷は使者を送って探し、彼を見つけました。

 明空(ミンコン)は使者が来るのを見ました。船には船を漕ぐたくさんの兵士が乗っています。それで精進料理を出して食べさせたいと欲し、小さな鍋にご飯を持って行き、船の兵士たちもいっしょに食事するよう彼らに言いました。「みなさん多いので、腹を満たせるか心配です。とりあえず食べてください。」漕ぎ手の兵士は数百人にのぼりましたが、みんなが食べても、食べ尽くせませんでした。

 兵士が食べ終わると、師は言いました。「しばらく寝て、潮が満ちるのを待ってから行きましょう。」彼らは従い、全員が船でぐっすり眠りました。そしてあっという間に船は都に戻りました。漕ぎ手たちは驚いて目を覚ましました。

○明空(ミンコン)が道行(ダオハイン)の重病を治す

 明空(ミンコン)が着いた時、色々な場所で学んだ有名な先生たちが宮殿で法術を行っており、明空(ミンコン)を無知な田舎者と見て、あいさつさえしませんでした。明空(ミンコン)は長さ約5寸の大釘を取って宮殿の柱に打ち付け、声を大きくして言いました。「この釘を抜くことができる者が、病を治す能力がある。」再三繰り返しますが、応じる者はありません。明空(ミンコン)は左手の2本の指で、釘が抜きました。誰もが驚いて感服しました。

 神宗(タントン)に会った時、明空(ミンコン)は大声で言いました。「偉大な人が天子として即位し、四海の富を有しているのに、なぜそのように病で錯乱しているのですか。」帝はそれを聞いてとても震えて恐れました。明空(ミンコン)は大鍋に油を入れるよう命じ、それをよく沸かし、手で4回かき混ぜ、王の体全体に振りかけると、病気はすぐに治りました。帝は明空(ミンコン)を国僧に任命し、彼に報いるために数百戸分の禄(ろく)を授けました。

 太平(タイビン)22年(※太平は3年間?)、辛丑(タンスー)の年、明空(ミンコン)76歳でこの世を去りました。

Mahakashyapa (1).jpg禅僧が宮廷で陰謀を企てたり、陰謀と戦ったりする話。
ベトナム(そして中国韓国朝鮮も)の仏教はメチャクチャ現世的呪術的なようです。
それにこの頃は僧が結婚して子どもを生んでもいいようです。
禅問答の訳、ぜんぜん自信ないので突っ込まないでください

●路(ロ)の元気な子ども時代
 佛迹(ファットティック)山、天福(ティェンフク)寺には、姓は徐(トゥ)名は路(ロ)、僧名は道行(ダオハイン)と言う禅師がいました。父の名は榮(ヴィン)と言い、李(リー)朝の僧官都察(そうかんとさつ 僧尼を統括する僧の官職)で、しばしば安朗(アンラン)村を訪れて遊び、曾(ロー)氏の娘の鸞(ロアン)と結婚し、そこに落ち着きました。
 路(ロ)は、曾(ロー)氏の生まれであることを意味します。年少の頃は遊侠(強きをくじき義を重んじる)で、開放的、大きな志を持ち、言動は誰にも計り知れません。いつも儒者の費生(マイシン)、道士の黎全義(レートアンギア)、楽人の潘乙(ファンアット)と仲良くしていました。夜は本を読みふけり、昼は笛を吹いたり、球を打ったり、楽しく遊んでいました。
 両親は彼をいつも怠けていると責めましたが、ある夜、部屋の入り口のすき間から中をのぞくと、灯芯は燃え尽き、本が積みあげられ、路(ロ)は倒れて眠りに落ちていましたが、手は本の上に置いたままでした。それで親はもう心配しなくなりました。路(ロ)は僧になる試験を受けて、白蓬(バックリエン)科に合格しました。

●父が呪い殺され、復讐する
 その後まもなく、父は邪術を使って延成(ディエンタイン)侯の不興を買いました。延成(ディエンタイン)候は大顛(ダイディエン)禅師に命じて、法術を使って父を殺させ、死体を蘇瀝(トーリック)川に投げ込みました。死体は安決(アンクェット)橋まで流れ、延成(ディエンタイン)侯の家の正面に来て、忽然とそこに立って、ずっと流れていきませんでした。
 延成(ディエンタイン)候は恐れて、大顛(ダイディエン)に話し、大顛(ダイディエン)が来て「出家した者は1日を超えて怒ることは許されない。」と一喝すると、それを聞いて死体は倒れて流れて行きました。路(ロ)は父親の敵を取ることを考えましたが、計画が思いつきませんでした。
 ある日、路(ロ)は、打ちのめそうとして大顛(ダイディエン)が出て来るのをうかがっていました。すると突然空中で「やめろ。」という大声が聞こえました。路(ロ)は恐れて棒を捨てて逃げました。
 彼はインド国の寺院に行き、顛(ディエン)を倒す霊異の術を求めたかったのですが、途中、今歯(または金歯)(キムシー)族の険しい土地を通る道が困難だったので、戻ってきて佛迹(ファットティック)山にこもり、毎日、大悲陀羅經咒(ダイビダーラ)経を読む事、満十万八千回となりました。
 ある日、神人が自分の前に来て言います。「弟子の名前は鎮天王(チャンティエンヴオン)です。あなたが経を読み功徳を積んだことに感服して、あなたを励ますためにここに来ました。」路(ロ)は道法(ダオファップ 仏法)が成就したこと、父の屈辱を晴らすことができることを知って、安決(アンクェット)橋に行き、杖を手に取り、急流に投げ入れました。杖は流れをさかのぼり、西陽(タイズオン)橋まで行って止まりました。
 路(ロ)は喜んで言いました。「私の法術は大顛(ダイディエン)を倒すことができる。」それからまっすぐ顛(ディエン)の所に行くと、顛(ディエン)は路(ロ)を見て言います。「お前は先日のことを覚えていないのか。」言い終わって空を仰ぎ見ると何も見えませんが、顛(ディエン)は打たれました。そして病気になり死にました。

●禅の道を求める
 それで、雪辱が果たされ、俗念は灰になって冷め、路(ロ)は寺院を巡礼し、仏の道を求めて訪ねました。平化(ビンホア)道の喬智玄(キェウチーフェン)の名を聞き、参拝して真心(しんじん)についてこう質問しました。

久しく塵にまみれて金がわからない
真心がどこにあるのかはわからない。
それを開く方便を教え諭してもらうことを願う。
菩提(悟り)を見れば苦しみが断たれる。

 玄(フェン)は答えました。

五音の秘訣は本物の金を見せ
満月は禅の心を明らかにする。
無限の川の砂が菩提の道。
菩提に向けば万里隔たて遠い。

 路(ロ)完全には理解できなかったので、法雲山(ファップリンソン)寺に行き、范會(ファムホイ)禅師に会い、「真心とは何ですか?」と聞きました。范(ファム)は言いました。「阿難個(アナムカー)が真心なり。」路(ロ)はふと気がついて聞きました。「行住(ぎょうじゅう 日常のふるまい)はどのようにしたらいいでしょう。」范(ファム)言いました。「腹がすいたら食べ、のどが渇いたら飲むのだ。」
 路(ロ)は辞して去りました。その時から法力はますます力強く、禅縁はますます深くなりました。
山蛇、野獣たちは来て彼の周りで親しみ、彼は指を燃やして雨乞いをし、まじないの水で病を癒やし、霊験のないときはありませんでした。
 ある俗人が聞きました。「歩く、立つ、座る、寝ることすべてが仏の心ですか。」と問うと、路(ロ)は言いました。

塵があり砂があるように、
空は一切空である。
水や月のように空はあり、
物は空になることができる。

 またこう言いました。
山の頂に太陽と月が出て、
人々は火球を失う。
帰る人は子馬を連れ、
行く人は馬に乗らず歩く。

前黎朝のはじめ、宋から攻められるが、2人の兄弟神が来て助けて
2vithan.JPG宋軍を打ち破る話。皇帝も戦うんですよね?
次の話に出てきますが、この頃は仏僧(大師)も大きな権力があったそうです

画像はlinhnamchichquai

黎大行(レーダイハイン)が宋に攻められる
 黎大行(レーダイハイン)帝の時代の天福(ティェンフック)元年、宋太祖(トンタイトー)は侯仁宝(ハウニャンバーオ)を将軍に命じ、孫権興(ドントアンフン)など将兵を、南に侵攻させ大灘江に到りました(※漢文)。黎大行(レーダイハイン)と将軍范巨倆(ファムクルオン)の軍隊は、屠虜(ドーロー)江で抵抗し、双方が陣地を守りました。
 大行(ダイハイン)は夢を見ました。2人の神人が川にいてあいさつして言います。「我々は兄弟神で、1人は張呼(チュオンホン)、もう1人は張喝(チュオンハット)です。以前、趙越王(チェウビェトブオン)に従い、軍を率いて反逆者を征服し天下を取りました。趙越王(チェウビェトブオン)が国を失なった後、李南帝(リーナムデー)が兄弟神を召喚しましたが、臣下の義のために従うことはできず毒を飲んで自死しました。(※新しい主人に従うことを拒んだ)
 上帝(天の神)は、我々兄弟神の忠義の功績を惜しみ、我々を軍の将として神霊の列に加え、鬼の兵を率いさせました。今、宋(トン)の兵士たちは国境を越え、わが国に生きる人を苦しませます。それで我々はここに謁見に来て、人々を救うために、帝と共に敵を討つ事を誓うのです。」大行(ダイハイン)は驚いて目覚め、近臣たちに喜んで言いました。「神人が我々を助けてくれる。」
2人の兄弟神が敵を打ち破る
 そして自分の船の前で香をたき、「神人が我々を助けるなら、この偉業を成し遂げられる。ならば私は万世に渡って捧げ物をしよう。」と誓いました。その後、生け贄の動物を殺し、香を焚き、衣服と冠、象、馬、紙幣を捧げました。その夜、大行(ダイハイン)は、2人の神人が彼らに捧げた冠と衣服を身に着け、感謝している夢を見ました。
 次の夜、白い服の人が鬼の部隊を率い平江(ビンザン)川の南から来て、赤い服の人が鬼の部隊を従え如月江(ニューグエットザン)川の北から来て、共に敵陣に突入して戦うのが見えました。
 10月30日の真夜中、空は暗く、激しい大雨と強風でした。宋(トン)軍はおびえていました。神人は姿を消して空中に立ち、大声でこう唱えました。
 南の国の山河は南の皇帝の居る所
 皇帝は天の書に定めらている
 いかに北虜(バックロ)が侵入してくるとも
 刀の刃は竹を割るように敵を破る
 宋(トン)軍はそれを聞くと、互いに踏みつけあいながら逃走し、互いに殺し合い、バラバラに逃走し、捕虜となった者は数えられません。宋(トン)軍は大敗して、帰還しました。
 大王(ダイハイン)は戻って祝い、功臣に報酬を授け、2人の神にも死んだ後に授ける称号を与えました。一つは威敵大王(ティンマンダイオブン)で、龍眼(ロンニャン)川の合流点に廟を作り、龍眼(ロンニャン)川と平江(ビンザン)川のほとりの人々に崇拝させました。もう一つは卻敵大王(クオックマンダイオブン)で、如月(ニューグェット)川の合流点に廟を建て、如月(ニューグェット)川のほとりに住む人々に崇拝させました。捧げ物はずっと続いていて、今でもなお福の神です。

第2巻第18話 傘圓(タンビェン)山の伝説
-山精(ソンティン)水精(トィティン)

ehon3_6.jpg・海に行った貉龍君の子が大王となって傘圓(タンビェン)山に住む話と
 雄王(フンヴォン)の媚娘(ミヌオン)を巡る山精(ソンティン)水精(トィティン)の戦い
・水精(トィティン)が川の流れを操って、水で攻めていくところが、ダイナミックでベトナムらしいです

●傘圓(タンビェン)山の大王と高駢(カオビェン)
 傘圓(タンビェン)山は南越(ナムビェット)国京(キン)城の昇龍(タンロン)城の西にあります。山の高さは1万2千3百丈、周囲は9万8千600里、3つの山が連なり、頂上が傘のように丸いことからその名がつきました。
 唐僧(ドゥオンタン)の哀交州(アイザオチャウ)紀によると、山の大王(ダイブオン)は阮(グェン)氏の山精(ソンティン)で、極めて霊応あらたかです。干ばつや洪水の時に祈るならば、災いを防ぎ禍を除け、即座に霊験が現れます。参拝者は心から神を敬っています。晴れた日にはいつも、山の谷間に旗や幟のようなひらひらした影があらわれす。地元の民は、それは山神(ソンタン)の現れだと言っています。
 唐(ドゥオン)朝の高駢(カオビェン)が安南(アンナム)にいた時、霊跡を追い払おうと考え、17歳の未婚の娘を切りさき、腹わたを取り除き、中を草で満たし、服を着せて、台座に座らさせ、犠牲の水牛を供え、この挙動をうかがって、剣を振って頭を切り落としました。神々を欺くために、この術を用いるのです。
 駢(ビェン)はこの術を、傘圓(タンビェン)山の大王(ダイブオン)に供えるためによく使用しました。見ると雲の上で白い馬に乗った大王(ダイブオン)が唾を吐いて行きます。駢(ビェン)は嘆いて言いました。「南の霊気は計り知れない。よい気がどれだけあっても終わらせられない。」霊験はこのようにはっきりと現れるのです。

●大王(ダイブオン)が道路や休憩所を作る
 その昔、大王(ダイブオン)は傘圓(タンビェン)山の優れて美しい風景を見て、白番(バックフィェン)の川湊から傘圓(タンビェン)山に向かい、安淵(アンヴェ)洞窟を通り、川の源の岩の泉に至る道を作りました。休憩ができる建物も作りました。それから、山の右手の端を通り過ぎて、雲に覆われた頂上に行き、そこに居を定めました。時折、小黄江(ティエウホアンザン)川に遊んで、魚を捕ったり、村々を巡りました。村々には休憩できるように殿(デン 建物)を作ってありました。その後、人々はそれらの殿(デン)の跡をたどり、崇拝のために廟を建てました。

●媚娘(ミヌオン)を巡る山精(ソンティン)水精(トィティン)の戦い
 また魯公(ローコン)の交州記(ザオチャウキーの古い言い伝えによると、大王山精(ダイブオンソンティン)は、姓が阮(グェン)氏で、峰州(フォンチャウ)県の茄寧(ザーニン)の地で、水族と共に暮らしていたと言われています。周赧王(チューノアンヴオン)王の治世中、18代目の雄王(フンヴオン)が峰州(チャウフオン)の越池(ビェットチー)にやって来て、国の名を文郎(ヴァンラン)としました。雄王(フンヴオン)には、とても美しいで名前は媚娘(ミヌオン 神農(タンノン)の27代目の孫娘)がいました。蜀王泮(トックブオンファン)が求婚しましたが、王はよい婿を求めていて、意にかないませんでした。
 数日後、突然2人の人が求婚に現れました。1人は山精(ソンティン)もう1人は水精(トィティン)と言います。雄王(フンヴォン)は法術を競うよう命じました。山精(ソンティン)が山を指すと山が崩れます。何の障害もなく石の内外を出入りします。水精(トィティン)が空中に水を吹き上げるとそれは雨雲になりました。王は言いました。「二人とも神の力に通じているが、私には娘が1人しかいないので、先に結納の品を持ってきた者に娘を与えよう。」
 翌朝、山精(ソンティン)が貴重な宝石、金銀、鳥や獣、その他の贈り物を持ってきて捧げると、王は結婚を許しました。後から水精(トィティン)が来ましたが、媚娘(ミーヌオン)が見えません。彼は非常に怒り、水族を率いてこれを奪うために戦うことにしました。

●水精(トィティン)の洪水
 王は慈廉(トーリェム)県の川を鉄の網で横に仕切りました。水精(トィティン)は小黄江(ティェウホアンザン)川一帯を開くように命じ、蒞仁(リーニャン)山から喝江(ハットザン)に出て、沱江(ダーザン)川に入り、傘圓(タンビェン)山の背後を攻撃しました。再び、小迹江(ティェウティックザン)川の分岐を傘圓(タンビェン)山の前に向かって開き、それは甘蔗(カムザー)、車樓(サーラウ)、古鴞(コーハオ)、麼含(マーサー)を通り過ぎ、深みになり大きな湾となって、水族(トゥイトック)の軍の道を開きました。
 そして常に雨や風を起こし、水位を上げて雄王(フンヴオン)を攻撃します。 これを見た山麓の人々は、これを守るためにすき間のある柵を立て、木の臼を打ちたたき、大声で助けを求めました。柵の外に草が流れているのを見たら、人々はそれを撃ちます。水族は死ぬと龍、蛇、亀の死体に変わり、それは川を塞ぎました。.
 例年7月~8月頃はこのように洪水が起きます。山麓の人々は強風や水害に見舞われ、稲作に被害を被ります。山精(ソンティン)と水精(トィティン)が互いに媚娘(ミヌオン)を争っていると言われています。
 大王(ダイブオン)は神の体の長寿の秘訣を持っているので、非常に神聖です。それは大越(ダイビェット)国の最初の祝福された神です。

●大王(ダイブオン)は海に行った50人の1人
 陳(チャン)朝の翰林(ハンラム)院の学者、阮士固(グエンシーコー)が西に行って拝謁した時、次のような詩を作りました。
   山は天のように高く、神は神聖です
   その声を聞くと心臓の鼓動は高まります
   媚娘(ミヌオン)よ霊術を現してください
   学者のこの旅を守るように
 この伝説の終わりには、続いて段落があります。
 世法集(テーファップタップ)という本によると、昔、貉龍君(ラックロンクァン)と嫗姬(オーコー)が結婚して百個の卵が入った袋を産みました。それぞれの卵から男の子が生まれ、龍君(ロンクァン)は50人の子どもを連れて海に帰りました。嫗姫(オーコー)には50人の子どもがついて行き天下を分割して支配し、王を雄王(フンヴォン)と呼びました。
 しかし傘圓(タンビェン)山の大王(ダイブオン)は元は海に行った50人の子どもの1人であり、山の精霊ではなかったのです。

●大王(ダイブオン)の居所探しの旅
 大王(ダイブオン)は神符(タンフー)海の口を通って戻って来て、人の少ない静かな土地で、人々が素朴で親切な所に暮らす場所を探していました。大(カイ)川をたどって龍肚(ロンド)の地に向かい、次に震澤(チャンチャック)に着いて留まるつもりでしたが、満足しませんでした。ついにそこを去り、瀘江(ローザン)川をさかのぼって福祿(フックロク)の岸まで行き、岸に立つと、美しく高く美しい傘圓(タンビェン)山が見えました。3つの嶺が並んでいて絵のようにです。さらに、山麓には、水牛を屠殺し、酒を造り、毎日食べて飲んで、歌を謡い詩を吟ずる人々がいます。王(ブオン)は、由番津(バックフィェンタン?)から傘圓(タンビェン)山の南に登る、綱のようにまっすぐな道を作るよう命じ、安淵(アンウェン)洞窟について殿を作って休憩しました。

第2巻第16話 南詔(ナムチェウ)の伝説

・南詔(ナムチェウ)人たちが、あちこちで戦い、国を作ったり、国が滅びたりする話
・南詔(ナムチェウ)は中国の西南部から、一時は東南アジアに広がった国
・南詔(ナムチェウ)軍は、待ち伏せなどゲリラ戦や略奪が得意なようです。

●呂嘉(ルーザー)が漢の使者を殺し、南詔(ナムチェウ)は橫山(ホアンソン)に
 南詔(ナムチェウ)人は,趙佗(チェウダー)武帝の子孫です。漢(ハン)武帝の時代、南越(ナムビェット)の首相は呂嘉(ルーザー)で、漢(ハン)の使者のである安国の少季(ティェウクイ)に従わずに殺害しました。漢(ハン)武帝は路博德(ロバックドック)と楊僕(ズンファック)を将軍に命じて、将兵を遠征させ、擒衞陽王(ベズォンブォン)建德(キエンドック)と呂嘉(ルーザー)を打ち、国を併合し、軍に各地を支配させました。
 趙(チェウ)氏の子孫たちは四方に散り、その後、神符(タンフー)に戻りました。橫山(ホアンソン)は人のいない荒れた土地でした。配下が増えてくると、船を作って、時には海に出て敵の地域に侵入し、海辺の人々を脅して物を取り、漢(ハン)朝の役人を殺しました。
 人々は南趙(ナムチェウ)と呼び、恐れて従いました。後に転じて南詔(ナムチェウ)と呼ぶようになり、(尊い血筋の名前なので)この呼び名を使うようになりました。

●南詔(ナムチェウ)軍の支配
 呉朝の時代になると、孫權(トンクェン)が戴良(ダイルオン)と戴良(ルーダイ)を長官に命じてを敵を討って治めるために送りました。天擒(ティエンカム)山から、河華(ハーホア)、高望(カオボン)、橫山(ホアンソン)、烏踦(アトゥン)、海岸(ハイガン)、望蓋(スーボ)、長沙(チュオンサー)、桂海(クエハイ)、望蓋(ボンカイ)、磊雷(ロイロイ)まで、高い山広い海、波高く険しい所、人の足跡もないような所まで、南詔(ナムチェウ)軍がいない所はありません。南詔(ナムチェウ)軍はそこでしばしば略奪を行って暮らし、長官と戦って殺し、それをやめさせることはできませんでした。この人々はだんだんと繁栄し、しばしば多くの財貨や珠玉を賄賂として西婆夜(タイバーザ)国に送り、お互い親密にいて助け合うことを求めました。

●晋(タン)の退却、南詔(ナムチェウ)国を作る
 晋(タン)朝の終わりには天下が混乱しました。趙翁李(チェウオンリー)という酋長は、趙佗(チェウダー)武帝の子孫で、多くの兄弟があり、皆優れて勇敢でした。誰もがかれに従い、南詔(ナムチェウ)軍は共に結集し、2万人以上の人々が、珠玉を西婆夜(タイバーザ)国に持って行き、近くの空いている土地に住む場所を求めました。
 当時、西婆夜(タイバーザ)国は、海浜と平野を均等に分割して、2本の道路を敷いていました。1つの道は 上は貴州(クイチャウ)から下は演州(ジエンチャウ)までで、嘉遠(ザービエン)路と呼ばれていました。水牛を殺してその血で宣誓を行い、そこを南詔(ナムチェウ)国に渡し、趙翁李(チェウオンリー)が支配しました。
 その後、翁李(オンリー)は、演州(ジエンチャウ)高舍(カオサー)鄉に町を築き、東は夾海(ザップハーイ)まで、西は婆夜(バーザ)国、南は橫山(ホアンソン)までを支配する王となりました。
 東晋(ドンタン)朝は、曹耳(タオニー)を将軍に命じ将兵を派遣して攻めました。翁李(オンリー)は川の上流の険しい場所で将兵を待ち伏せさせて戦い、その後、海に出て連山(ミーソン)と末山(マットソン)に隠れました。敵が集まれば自分たちは分散し、敵が別れれば自分たちが集まり、朝に出て暮れに入り、4、5年間持ちこたえました。晉(タン)軍は山の嵐に耐えることができず、半数以上が死亡し、退却しました。

●南詔(ナムチェウ)の退却
 南詔(ナムチェウ)軍がしばしば南城(ナムタイン)、東城(ドンタイン)、長安(チュンアン)の各所を侵略して略奪するので、長官は制御することができませんでした。唐朝が繁栄すると、懿宗(イートン)帝が高駢(カオビェン)に命じ、将兵を連れて戦うように命じましたが、しかし勝つことはできずに戻りました。
 晉朝五代の王石敬塘(タックキンドゥオン)は司馬李(トゥマーリー)に命じ、塗山(ドーソン)を攻撃するために20万人の軍隊を送りました。南詔(ナムチェウ)軍は退却して、哀牢(アイラオ)国を頼み国境の地に行きました。盆蠻(ボンマン)国の頭橫模(ダウホアンモ)という所です。常に略奪を職業とし、攻撃する時休む時も、平和であることはありません。その土地は現在鎮寧(チャンニン)府であり、大越国の地図にずっと記載されています。

第2巻第17話 蘇瀝(トーリック)川の伝説

・派遣されてきた将軍高駢(カオビェン)が、蘇瀝(トーリック)川に城を作るも、土地の神様に邪魔されて苦戦する話
・蘇瀝(トーリック)川はハノイの西から南に流れる川

●高駢(カオビェン)大羅(ダイラ)城を建設
 唐の懿宗(イートン)帝は、咸通(ハムトン)6年に、高駢(カオビェン)を都護将軍(ドーホトゥンクアン)に命じ、南詔(ナムチェウ)の敵を倒すために将兵を送りました。高駢(カオビェン)が戻った時、帝は靜海(ティンハイ)軍を嶺南(リンナム)(嶺安)の城塞に置き、高駢(カオビェン)を節度使(ティェトドスー 司令官)としました。
 駢(ビェン)は天文と地理に通じていて、土地の地形を見て、瀘江(ローザン)の西に周囲が30里の大きさの大羅(ダイラ)城を建設しました。瀘江(ローザン)の支流が西北に流れ込み、南に回って、大羅(ダイラ)城を囲み、そして再び主流に戻ります。

●川の名を蘇瀝(トーリック)に
 当時、6月中旬には雨水が多く溢れました。駢(ビェン)が小さな船に乗り込み、流れに乗って支流に入り、1里ほど行ったところ、突然、白いあごひげと白い髪の老人が、奇妙な外見で川の真ん中で水浴びをしていました。そして笑って話します。
 駢(ビェン)は名前を教えてくれるよう頼みました。すると「姓は蘇(トー)、名は瀝(リック)。」と答えるので、駢(ビェン)が再び「家はどこか」ろたずねると「この川の中である。」と答えます。言い終わると、手をたたき水しぶきを上げて、忽然と姿を消しました。駢(ビェン)は、これは神人であると考え、この川の名を蘇瀝(トーリック)と名付けました。

●高駢(カオビェン)帰国へ
 また別の日の早朝、駢(ビェン)が大羅(ダイラ)城の東にある瀘江(ローザン)川のほとりに立っていると、強い風が吹き荒れ、川の水がうねり、空が雲って暗くなり、不思議な人が水の上に立っているのを見ました。背丈は二丈を超え、黄色い服を着て、頭には紫の冠をかぶり、手には黄金のお札を持って、空中で光を放ちながら、上がったり降りたりします。
 日が高くなっても、空は霧におおわれて暗いままです。駢(ビェン)が恐れて、この神を祓いたいと思うと、夜、夢の中で、神人が言いました。「我を祓うなかれ。我は龍肚(ロンド 龍のへそ)の精であり、地霊の長である。あなたはここに城を建てたが、我々はまだ会っていないので見に来たのだ。我々は護符の術を恐れようか。」駢(ビェン)は驚いて目覚めました。
 翌朝、駢(ビェン)は祈願のための祭壇を設けて、お祓いのために金銅鉄符を置きました。この夜、雷鳴が鳴り響き、風雨が吹き荒れ、空と大地は暗くなり、神将は咆哮し、天と地は震えました。そして一瞬にして金銅鉄符が地上から離れ、灰となって空中に散って行きました。
 駢(ビェン)はさらに驚いて「ここには不思議なた霊異を行う神がいるので、災いを避けるためには、長く留まることはできない。」と嘆きました。その後、懿宗(イートン)は駢(ビェン)を呼び戻しました。駢(ビェン)は処刑され、高鄩(カオタム)が代わりとなりました。

第2巻第15話 蠻娘(マンヌォン)の伝説

Phap_Van_chuaDau.jpg・寺の下働きをしていた耳の聞こえない娘が、高名な阿闍梨(あじゃり)の子どもを妊娠してしまい、阿闍梨(あじゃり)が赤ちゃんを木の洞に捨てると、石になって、その石で仏像を作るという話。娘は人を助け尊敬されていたと。
・いや、なんと反応していいのか。日本もそうでしたが昔の命は軽いです。
・子宮外妊娠で胎児が石化してしまう場合があるそうですが、その状態の人がいたのでしょうね。
・蠻娘(マンヌォン)のマン(蛮)の意味は粗野、または素晴らしいという意味で、下働きの娘をそう呼んだのかもしれませんし、他の話では敬虔な仏教徒の両親を持つ娘となっているので素晴らしい、かもしれません。

●蠻娘(マンヌォン)の修行
 漢(ハン)の獻帝(ヒェンデー)の治世に、交趾(ザオチー)の太守の士燮(シーニェップ)は、平江(ビンザン)川(現在の天徳江(ティエンドックザン))の南岸に首都を置きました。
 城塞の南には仏教の寺があり、西方から来た僧侶である伽羅闍梨(ザーラドーレ)がその寺の住職でした。彼には1本足で立つ術があり、誰もが尊敬して尊師(トンスー)と呼び、みんなが来て道を学びました。
 当時、蠻娘(マンヌォン)という娘がいて、両親が亡くなり、非常に貧しくしていました。仏の道を学ぶことを求めて寺に行きましたが、吃音があったため、経を読むことができませんでした。そこで厨房にいて米をといだり、野菜を採って煮炊きをして、寺院の僧侶やあちこちから学びに来る客に出しました。

●蠻娘(マンヌォン)の妊娠
 5月のある夜、夜は短く、僧侶たちは雄鶏が鳴く時まで経を唱えました。蠻娘(マンヌォン)はお粥を作りましたが、僧侶たちの読経は終わっておらず、まだ粥を食べに来ませんでした。媚娘(マンヌォン)は台所の入り口に寄りかかって、ふいに深い眠りに落ちました。僧侶たちが読経を終えると、各自の部屋に戻りました。媚娘(マンヌォン)は入り口の真ん中で眠っていて、僧侶の闍梨(ザーラ)は歩いて媚娘(マンヌォン)の体をまたいで過ぎました。媚娘(マンヌォン)は自然に妊娠してしまいした。妊娠して3、4か月になり、媚娘(マンヌォン)は恥じて寺を去りました。僧侶闍梨(ザーラ)も恥ずかしくて出て行くのをそのままにしました。

●闍梨(ザーラ)が芙蓉の木に赤ちゃんを捨てる
 媚娘(マンヌォン)は川の合流点にある寺院に行って、そこにとどまりました。月が満ちて女の子が生まれ、僧侶闍梨(ザーラ)をたずね子どもを渡しました。夜になると、僧侶闍梨(ザーラ)は女の子を三叉路に運び、枝葉の茂る芙蓉を見ると、深くて清潔な穴があったので、そこに子どもを置いて言いました。「私は仏にこの子を送る。あなたはこれを収め、仏道をなそう。」

●蠻娘(マンヌォン)が人々を救う
 闍梨(ザーラ)と媚娘(マンヌォン)はとわの別れを告げて分かれました。闍梨(ザーラ)は媚娘(マンヌォン)一本の杖を与えて言いました。「お前にこれを与える。お前が家に戻り大きな干ばつに遭ったときは、この杖を地面にさせば、地上に水が湧き、人々の命を救うだろう。」媚娘(マンヌォン)は拝んで受け取り、住んでいる寺に戻りました。

●芙蓉の木が流れてくる
 大きな干ばつが来ても、杖を地面に突き刺せば、自然に水が湧き出して、人々は助かることができました。媚娘(マンヌォン)が90歳を超えた時、芙蓉の木が倒れて、寺の前の川岸に流れてきて、流れ去ることなく漂っていました。人々はこれを見て、拾って薪にするためにそれを切ろうとしましたが、どの斧も壊れてしまいます。それで村の300人以上の人々を連れてきて木を引き上げようとしましたが、動かせませんでした。
 媚娘(マンヌォン)が川辺に降り手を洗ったとき、戯れに木を引っ張ってみると動きました。みんなは驚いて、媚娘(マンヌォン)に岸に上げるよう頼んで、4つの仏像を彫るために職人を頼みました。木を切って女の子がいる場所になると、それは非常に固い岩に変わりました。職人たちは斧を使って岩を砕きましたが、斧はすべて欠けていました。職人たちは石を川に投げ込みました。するとまぶしく光り、石は長い時間かかって水に沈みました。職人たちはみんな死んでしまいました。

●石になった赤ちゃんで仏像を作る
 人々は媚娘(マンヌォン)に拝むよう頼んで、漁師を雇って水に飛び込ませ、岩を拾い上げ、寺に持っていき、仏像の中に置きました。仏像は自然に金におおわれて見えました。僧侶闍梨(ザーラ)は仏像を法雲(ファップヴァン)、法雨(ファップヴゥ)、法電(ファップロイ)、法雷(ファップロン)と名付けました。あちこちで祈祷を行い、どんなことにも応じました。 村人たちは、媚娘(マンヌォン)を仏の母と呼んでいます。
 4月4日、媚娘(マンヌォン)は病気ではないのですが、亡くなって、寺の中に埋葬されました。人はこの日を仏陀の誕生日とみなします。毎年、その日には、あちこちの男女がこの寺に集まり、歌と踊りで遊びます。これは仏浴会(ホイタムファット)と呼ばれています。

第2巻第14話 徵(チュン)姉妹の伝説

とても有名な、軍を率いて戦った徴(チュン)姉妹の話です。

haibatrung.jpg●2人の姉妹
 「史記」によると、徴(チュン)姉妹は雄(フン)氏の一族で、姉の名は側(チャック)妹の名は弐(ニ)と言い、峰州(フォンチャウ)の地の麊泠(メーリン)県出身で、交州(ザオチャウ)の将の雄(フン または貉)官の娘でした。側(チャック)は、朱鳶(チュージェン)県出身の詩索(ティサック または謝素)と結婚して、夫のために人として正しい道を守り、勇気があり、事を決断する力がありました。
 当時、交州(ザオチャウ)の長官の蘇定(トーディン)はひどく貪欲で乱暴で、人々はとても苦しみました。

●長官を倒す
 側(チャック)は定(ディン)が夫を殺した仇を討つために、妹の弐(ニ)と共に兵をおこし、定(ディン)を打ち、交州(ザオチャウ)を攻め落としました。九真(クーチャン)、日南(ニャットナム)、合浦(ホップフォー)の各郡すべてがこれに応え、2人の姉妹は嶺外(リンゴアイ 中国から見て南方)の65の都市を平定し、王としての地位を確立し、自らを稱徵(チュンブォン)氏と名乗り、都を烏鳶(オジェン)城に置きました。
 蘇定(トーディン)が南海(ナムハイ)に戻ったとき、漢光武(ハンクアンヴー)は知らせを聞いて、儋耳(ダンニー)郡に戻った蘇定(トーディン)をやめさせ、馬援(マービェン)と劉隆(ルーロン)を将軍として代わりに送りました。

●中国の援軍に敗北
 敵軍は浪泊(ランバック)に到着し、夫人は抗戦しました。年が過ぎ、馬援(マービェン)の兵力が強いのを見て、夫人は烏合の衆の自分たちの軍隊の力では抵抗できないと恐れがあると考え、禁溪(カムケ)の地を維持するために撤退しました。
 援(マービェン)の軍は攻め込んで来て、徴(チュン)夫人の部下はみな逃げました。夫人の勢力は孤立して、陣地は陥落しました。夫人が希山(ヒーソンまたはハーソン)に登ったも言われますが、どこに行ったかはわからないのです。
 世の人は悲しんで、喝江(ハットザン)川の河口に夫人を祀るために社を作りました。災難や病気の人は来て祈祷すると、霊験があります。

●姉妹の廟の修復
 李英宗(リーアイントン)の時代に干ばつがあっって、王は禅師の感淨(カムティン)に雨乞いの祈祷を命じました。ある日雨が降り、寒さが人を凍えさせました。王は喜んで、それを見に出かけ、突然に眠りに落ち夢を見ました。2人の女性が芙蓉の冠をかぶり、緑の服に赤い帯を締め、鉄の馬に乗って風に乗って通り過ぎていきます。王が驚いて聞くと2人は答えました。「私たちは徴(チュン)姉妹で、上帝の命によって雨を降らます。」
 王はさらに助けを求めました。2人は手をあげて止めました。王は夢を覚えていて、深く感じ入り、社を修復し、心を込めて祀るよう命じました。
 その後、2人の夫人は王の夢に現れ、ドンニャン(同僚?)浜(古來郷?)に社を建てるように頼みました。王は聞いて従い、貞霊二婦人という名を与えました。
 陳朝(チャンチエウ)は、再び「顯烈制勝純保順(ヒェンリェットチェータントゥァンバオトゥァン)」の美しい字の称号を授けました。今に到るまで代々崇拝されていて、お香の火が絶えることはありません。

第2巻第13話 金の亀の伝説後半 媚珠(ミーチャウ)と仲始(チョントゥイ)の悲恋

ehon1_1.jpgこれはとても有名な悲恋の物語
政略結婚した媚珠(ミーチャウ)と仲始(チョントゥイ)ですが、仲始(チョントゥイ)が石弓の亀の爪を取って行ったため、安陽王(アンズォンヴォン)は負けてしまいます。
そして媚珠(ミーチャウ)は殺され真珠になり、仲始(チョントゥイ)も悲しんで後を追います。血の色なので黒真珠なんでしょうね。

●亀が帰還し爪で石弓を作る
 金の亀は3年間そこにいて、別れを告げて帰りました。王は感謝して言いました。「あなたのおかげで城ができました。もし外敵が来た場合、何をもって防げばいいでしょう。」金の亀は、「国の盛衰、社会の危険と安全は、天の意志によるものです。人は徳を積み、この幸運を延ばすことができます。しかし、王が望むならどうして惜しいことがあるでしょう。」それから彼は爪を外して王に渡して言いました。「これを使って石弓を作ってください。これで敵を撃てば、心配することはありません。」そう言い終えると東海に戻りました。
 王は皋魯(カオロー)に命じ爪を使って石弓を作させました。これは霊光金亀(リンクアンキム)神機の石弓と呼ばれます。

安陽王(アンズォンヴォン)と趙佗(チェウダー)の戦いと和睦
 その後、佗(ダー)の趙王(チェウブォン)は兵を挙げ、安陽王(アンズォンブォン)と戦いを交えました。王は神機の石弓を取り出して撃ちました、佗(ダー)軍は大敗し、鄒山(チャンソン)に退却し、同盟国に砦を置きました。戦いを挑む事ができなかったので、趙王(チェウブォン)は講和を求めました。
 安陽王(アンズォンブォン)は喜んで、椒江(ティエウザン)川の北は趙佗(チェウダー)に属し、南は王が支配すると約束しました。ほどなく、佗(ダー)は結婚を求めました。王は深く考えずに、娘の媚珠(ミーチャウ)を、佗(ダー)の息子の仲始(チョントゥイ)と結婚させました。

●仲始(チョントゥイ)の裏切り
 仲始(チョントゥイ)は媚珠(ミーチャウ)を手なずけて神機の石弓をこっそり見ると、潜んで行って金の亀の爪を別の物を作って交換しました。そして、父親を訪ねるために北に行ってくると嘘をつきました。
 「夫婦の愛情は忘れることはできないし、父母の親愛も捨てることはできない。私は今に国に帰りますが、もし両国の和平がうまくいかなくて、南北に離れるときがあれば、あなたを探しに来ます。その時の印は何にしますか。」彼女は答えました。「私は女子ですから、離ればなれになることは、耐えがたいつらさです。私は鵞鳥の羽毛の錦織の上着を持っていて、いつも着ています。どこへ行っても、羽毛を抜いて置いて、三叉路の道を示します。そうすれば、お互いを救うことがでるでしょう。」

●安陽王(アンズォンヴォン)の敗北
 仲始(チョントゥイ)は魔法の機械を国に持ち帰りました。「佗(ダー)は大喜びで、戦うために挙兵し、安陽王(アンズォンヴォン)を攻めました。
 安陽王(アンズォンヴォン)は神機の石弓を頼みにして、静かに将棋を打ち、笑って言いました。「佗(ダー)は神機の石弓を恐れていないのか。」佗(ダー)軍は迫ってきて、王は石弓を取りましたが、神の力が失われたのがわかって、逃げました。
 王は媚珠(ミーチャウ)を馬の後ろにのせ、南に向かって走りました。仲始(チョントゥイ)は鵞鳥の羽毛を見て、追いかけて来ました。王は海岸に着きましたが、道がなく渡る船もなく、困って叫びました。「天よ困ります。清江(タインザン)の使いはどこにいますか。急いで来て私を救ってください。」すると金の亀が水面に浮かんできて叱りました。「馬の後ろにいる者は敵だ。」
 王は媚珠(ミーチャウ)を切るために剣を抜きました。媚珠(ミーチャウ)は誓って言いました。「私は父の娘です。父に対して反逆する気持ちがあるなら、父に殺されて死んで塵になるでしょう。もし、忠孝の心があって他の人にだまされたのなら、死んで真珠に変わり、恥辱を雪(そそ)ぐでしょう。」

●媚珠(ミーチャウ)の真珠
 媚珠(ミーチャウ)は海岸で死に、血が水に流れ、その血を吸った貝から真珠が生まれました。王は七寸文犀(スンテーバイタック 宝物か)を持ち、金の亀は水を割って王を海に導きました。その場所は、演州(ジエンチャウ)府、高舍(カオサー)荘、夜山(ダソン)の地と言われています。
 佗(ダー)軍がそこに着きましたが、何もなく、媚珠(ミーチャウ)の体だけが残っていました。仲始(チョントゥイ)は妻の遺体を抱きしめ、螺城(ロアタイン)に運んで埋葬すると、遺体は翡翠に変わりました。媚珠(ミーチャウ)が亡くなり、仲始(チョントゥイ)は悲しみ、水を浴びているときに媚珠(ミーチャウ)のような姿を見て、井戸に身を投げて死にました。
 後の時代の人は、東海の真珠をこの井戸の水で洗います。すると非常に明るく美しくなるからです。真珠の名は大玖(ダイクー)、小玖(ティエウクー 黒く光る)と呼びました。媚珠(ミーチャウ)という名前を敬って避けるからです。

第2巻第13話 金の亀の伝説 前半 螺城の築城

ruavang.png今回も荒唐無稽な幽鬼との戦い、いろんな魔法アイテムが登場します。
文郎(ヴァンラン)が滅び、甌貉(オーラック)国になりますが、城がうまく建設できないので、神に祈ると金の亀が助けに来ます。
安陽王(アンズォンヴォン)と金の亀が協力して幽鬼を倒すと無事、城が完成します。(というか土台の工事しっかりしようよ)

●文郎(ヴァンラン)が滅び、甌貉(オーラック)国に
 甌貉(オーラック)国の王である安陽王(アンズォンヴオン)は、巴蜀(バトック 中国四川省)出身の人で、姓は蜀(トック)名は泮(ファン)と言います。かつて先祖が雄王(フンヴォン)の王女媚娘(ミーヌォン)に求婚したのですが、雄王(フンヴォン)が許さなかったので、そのことに恨みを持っていました。
 泮(ファン)は先祖の志を果たすことを望んで、兵を挙げて雄王(フンヴォン)を攻め、文郎(ヴァンラン)国を滅ぼし、国の名を甌貉(オーラック)に改め、その王になりました。そして越裳(ヴィェトゥオン)の地に城塞を建てましたが、築いても崩れてしまいます。

●金の亀の来訪
 王は祭壇を作り、斎戒して、百の神々に祈りました。3月7日になると、老人が東からやって来て城の門に立つのが見えました。彼は嘆いて言いました。「この城はいつ建て終わるのか。」王は喜んで彼を宮殿に迎え入れ、挨拶をして聞きました。「私はこの城を何度も建てましたが何度も崩れて、多大な労力を要しましたがまだ完成しません。いったいなぜでしょうか。」老人は「清江(タインザン)からの使いが来る。王といっしょに築けば成功するだろう。」そう言い終わると去って行きました。
 翌日、王が東門に行って待つと、突然、金の亀が東から来て水面に浮かんでいるのが見えました。亀は人語を解し、「自らは清江(タインザン)の使いで、天と地、陰と陽、鬼と神についてよく知る者だ。」と言いました。王は喜んで言いました。「老人が事前に知らせてくれた通りです。」
 そして金の亀を輿(こし)にのせて城に入り、殿上に座るように招き、なぜ城塞を建てることができなかったのか聞きました。
 金の亀は、「この山に宿っている精気は、前王の息子の霊で、国の仇を討ちたがっています。また白いにわとりが千年生きて妖怪となり、七曜(タットジェウ)山に隠れているのです。」「山には幽鬼がいて、それはここに埋められた前の時代の楽士の魂です。近くに旅行者のための宿があり、主人は悟空(ゴコン)という名です。娘が1人いて、また白いにわとりもいますが、実は幽鬼の気の残った姿で、旅行者が宿に泊まると、幽鬼は何千もの形に変化して害をなし、多くの人々が殺されるのです。」
 「今、白いおんどりは宿の主人の娘と結婚しています。もしおんどりを殺すことができるなら、幽鬼は滅ぼせるでしょう。彼は陽の気を集めて妖魔の書に変え、オウムがその書を持って栴檀の木の上を飛んで、天の神に城塞を破壊するように頼むのです。私がかみついてこれを落とし、王がすばやくそれを拾って取るならば、城塞を完成させることができるでしょう。」

●宿屋での幽鬼との戦い

 金の亀は王に旅行者のふりをして宿に泊まり、金亀を門の上部に置くように言いました。悟空(ゴコン)は言いました。「この宿には妖魔がいて、夜になるとよく人を殺す。今日はまだ日が暮れていないから、あなた様は泊まるのはやめてすぐに行ってください。」王は笑って「死も生も運命、幽鬼に何ができるか、私は恐ろしくはない。」と言うと、宿に留まりました。
 夜になると、外から幽鬼がやって来て呼びました。「そこにいるのは誰だ。早く門を開けないか。」金の亀は「門は閉まっているぞ。お前は何をするつもりだ。」と叫びました。すると幽鬼は火を放ち、千の形、万の状態に変化し、幾千万の怪異で脅迫しようとしましたが、中に入ることは結局できませんでした。
 朝になってにわとりが鳴くと、幽鬼は逃げ去ってしまいました。金の亀は王と共にこれを追いかけて七曜(タットジェウ)山に向かいます。幽鬼の体は縮まって消えてしまいました。王は宿に戻りました。
 翌日の朝、宿の主人は宿泊した客の死体を埋葬するために人を行かせましたが、王が依然として笑っているのを見て、みんなで拝んで言いました。「あなた様が安全でいられるなら、聖人に違いない。」そして、人々を救うためにこの神の術を教えてくださいと頼みました。

●白いニワトリを殺し、幽鬼の書を奪う

 王は言いました。「お前たちが白いにわとりを殺して犠牲に捧げれば、幽鬼は消え去るだろう。」悟空(ゴコン)はこれに従い、白いにわとりを連れてきて殺すと、娘も倒れて死にました。王は七曜(タットジェウ)山を掘り、古い楽器と骨を燃やして灰にし、川に捨てるよう命じました。
 空が暗くなると、王と金の亀は越裳(ヴィェトゥオン)山に登り、幽鬼が6本足のオウムに変身して、書をくわえ栴檀の木の上に飛ぶのを見ました。金の亀は黒いネズミに変身し、オウムを追いかけ足を噛むと、書は地面に落ち、王はすぐに拾い上げ、バラバラに引き裂きました。

●幽鬼の滅亡と、螺城の完成

 それ以来、幽鬼は滅亡しました。城塞は半月あまりで建てられて完成しました。その城塞は広さが千丈を超え、タニシのようにらせん状にねじれているため、螺城(ロアタイン たにしじょう)と呼ばれました。また曰思龍(トゥロンタイン)城とも呼ばれます。唐(ドゥォン)の人々はそれを昆侖(コンロン)城と呼んでいました。おそらくそれが非常に高いからです。