嶺南摭怪にも「望夫岩」の伝説がありますが、
朝鮮にも同じように、夫を待つ妻の岩の伝説があります。
ベトナムの話とはかなり内容が違っています。

===鵄述嶺(チスルリョン?)の望夫岩 あらすじ===
 新羅(シルラ)の奈勿(ネムル)王(?-402)は王子の美海を倭国(日本)の、宝海を高句麗(コクリョ)の人質にしていました。その後、長男の訥祗(ヌルチ)王(?-458)が即位して、2人の弟を帰国させることを望みました。家来の朴提上(パクジェサン)は宝海は高句麗から取り戻していました。そして倭国からも美海を取り戻すよう、都に呼び出されました。
 朴提上は倭国に行って、「新羅で殺されるので逃げてきた」と嘘を言い、美海を船で脱出させた。朴提上はいっしょに帰ると計略がばれてしまうと言って、自分は残り、その後、倭の王に殺されました。
 美海は帰国し、王は朴提上の妻に国大婦人の称号を与え、彼の娘を嫁に迎えた。しかし、彼の妻はスリゼ(鵄述嶺)に登って、夫の帰りを待ち続けて嘆き死んでしまいました。彼女が座っていた岩は「望夫岩」と呼ばれるようになりました。
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 これは韓国の民俗学者、崔仁鶴が1934年に慶尚北道で採集した話のあらすじです。
(1977,日本放送協会,朝鮮伝説集,pp145-146)
他にも朝鮮の歴史書「三国史記」「三国遺事」などにも記載されています。
KBSラジオの朴提上の記事

しかし朴提上なぜ王子といっしょに帰らなかったのか?
本当は倭国に行きたくなかったのでしょうか?
そして妻はなぜそんなに嘆いたのか?
娘が王室に入れば楽な生活ができそうですが、
実際はそうでなかったのか??

この頃は、日本も朝鮮もベトナムも女王がいて楽しそうですね~。
女の人も普通に戦争に付いて行くし、出張感覚でしょうか?

編者 喬富(キェウフー)による後書きです。
口伝えの記録をある程度まとめて、削除したところもあること
中国の伝奇と同様の価値があることなどを記しています。

後書き

 ああ、通常の話はすべて経書(道徳の本)、史書(歴史の本)に記され、後々まで伝わり人々を諭す。しかし、奇怪で不思議な話は伝奇の中に記され、異聞が広がる。
 したがって、禹、夏、殷、周代の話はすべて書物に記録され、漢、唐、宋、元代の話も歴史に明確に記録されている。その一方で、河で遊ぶ老人(236)、雲をまとい大地を走る龍(237)、村に鳴り響く太鼓(238)、赤い書を握る雀(239)の事など、不思議な話のそれぞれが、足りない所を補うために存在している。

※中国の伝説
河で遊ぶ老人:堯(ギェウ)王と舜(トゥアン)王は5人の老人に会い予言を聞いたという伝説。
河図洛書:黄河の龍馬の背に地図があり、洛河の亀の背に書があったと言う伝説。
鼓腹撃壌(こふくげきじょう):世が平和で庶民が楽しく暮らしているのを堯(ギェウ)王が確認したという伝説。
赤い雀の書:周の文王が生まれる時に、「徳あれば百代まで受け継がれる」と言う書を持つ赤い雀がいた。


 漢朝の武帝(240)の内輪話、唐朝の天宝(ティエンバオ)(241)の話、宋朝の宮廷の生活の中やのどかな村で記録された多くの物語、これらの不思議な物語が、その時代に記され集められ、また閲覧できるようになっているのはなぜだろうか。

漢武帝内伝(Hán Vũ Đế nội truyện):武帝についての小説
天宝遺事(di sự Thiên Bảo):楊貴妃などについて書いた小説
宋朝物語:口語の小説のことか?

 わが国は、十二使君時代の前までは、文明や決まりが十分に明確ではなかった。しかし、国家の元の多くの故事は、速水通鑑(242)の中や、朝廷史の中に常に記されている。

十二使君時代:950~967年の内乱の時代、その後丁朝となる
速水通鑑(Thốc thuỷ thông giám):中国の司馬光(Tư Mỡ Quang)が書いた歴史書。資治通鑑(Tư trị thông giám)の事。

 山河や人物の不思議な話までは、歴史の書物の中には記されていない。しかし口伝えの話はまちがいではない。そして後世の博学者たちがその話を集め編纂し話を完成させた。わかる限るのすべての本を集め、バラバラになっているものを集め、未完成の点を補って完成させた。これらの素晴らしく崇高な事業には多くの重要な意味がある。

 なんと言うことだろう。天は不思議な玄鳥(ツバメ)を降臨させ、殷朝(243)の王が生まれ、百個の卵が孵化して息子たちになり、南の国を支配した。鴻龐(ホンバン)氏の物語は消える事はない。

王の夫人の1人 簡狄(かんてき)が玄鳥(ツバメ)の落とした卵を飲んで息子を産み子孫が殷朝の始祖となったと言う話。

 水牛の尻尾でいるより鶏の頭である方がいいので、趙(チェウ)氏の子孫は北の朝廷に反逆した。また南詔(ナムチェウ)の話を無視することはできない。

 河の水は周りを流れて、昇龍(タンロン)に集まる。蘇瀝(トーリック)川の物語は都の姿を美しく描くではないか。
 戦いの勝利は、石弓の引き金の秘密があばかれたからで、金亀(キムクイ)の物語が書かれたのは、忘れて危険を招いた安陽王(アンズォンヴォン)への批判なのか。
 人々への害を除いた、魚の精、狐の精そして木の精の物語も書かれている。
 バインチュン、龍眼、白鶴の物語では臣子の道徳をはっきりと語っている。
 董王(ドンヴォン)、翁仲(オンチョン)は敵と戦い帰還して名誉を与えられた。
 スイカ、キンマは人々に利益をもたらすことで名声を得た。
 一夜沢(ニャットザチャック)、越井岡(ヴィェットティンクオン)の話は、善をなせば陰徳陽報の報いがあるので、このように進むよう諭す。
 曰烏雷(ハーオーロイ)、夜叉(ザトア)王の話は好色な欲望のために、身を滅ぼし、国を失い、そうして私たちに警告している。
 傘圓(タンビェン)が官に逆らった話、媚娘(マンヌォン)が雨が降るように祈った話、徐道行(トゥダオハイン)が父の復讐を果たした話、阮明空(グエンミンコン)が王の病気を治す話、また楊空路(ズオンコンロ)、阮覺海(グェンザックハイ)のは龍を捕まえて落下させたり、ヤモリを動けなくして落下させる法術など、すべてが法術の精巧さを示している。
 よくあるある話ではないが、痕跡はよく残っているのだから、賞賛してもよいのではないだろうか。
 しかし、傘圓(タンビェン)の神は嫗姫(オーコー)の息子で、董天王(ドンティエンヴォン)は龍君(ロンクァン)の生まれ変わり、李翁仲(リーオンチョン)は死んだふりをしたと語る事に対しては、この愚か者は疑問を感じて正しくないと考えた。
 古い話では、伊尹(イードアン)はなますを使って料理を作り、湯(タン)王に取り入り、百里奚(バックリーヘー)は羊の皮5枚の取引をして、穆公(ムックコン)(244)に取り入ったと語る。もし孟子(マントゥ)がいて弁明しなければ、2人とも汚名をおったままであっただろう。

 あらためて言うが、傘圓(タンビェン)は豊かな自然の神、董天王(ドンティエンヴォン)は天の将軍、李翁仲(リーオンチョン)稀代の天才、どうしたとしても、このように書くことができるだろう。
 したがって、この愚か者は他の本を参照し、自身の考えを追加し、それらを修正し、過去の間違った言葉を修正した。
 後の時代の嘲笑を回避し、煩雑な場所を単純にし、持ち運びに便利な見やすい本にした。博学君子の皆さんが、この冒涜の罪を許してくださいますように。

洪徳24年(246)、癸丑(クイスウ みずのとうし)、孟秋(マイントゥ 初秋)
乙未(アットムイ)科進士 喬富(キェウフー)、すなわちヒェウレー 監修

17~18世紀の有名な中国の怪異伝集に
「聊斎志異(りょうさいしい/Liêu trai chí dị)」
作 蒲松齢(ほしょうれい/Bồ Tùng Linh)があります。

嶺南摭怪(れいなんせきかい)と同じように
口伝えの怪異伝を蒲松齢がまとめた物だそうです。

その中に交州(Giao Châu 当時のベトナムなど)と夜叉国(チェンパ)を
舞台にした話があるのであらすじを紹介します。

食べ物で懐柔したり、旦那さんが尻に敷かれたり、
ベトナムの昔話あるあるです。

夜叉国(Dạ Xoa Quốc)

交州の徐(Từ)と言う人が船で商売に出かけ、難破して夜叉国にたどり着きます。
夜叉国の人々においしい料理を作って気に入られ、妻もめとらされます。
ほかの女性も徐を誘惑しますが、妻は非常に怒ります。
やがて二男一女の三つ子を授かり幸せに暮らしていましたが、
ある日北風の吹く日に彪(Bưu)という兄を連れて、黙って船で帰ってきてしまいます。
兄の彪は交州で副将となり活躍します。

ある時別の商人が難破して、夜叉国で弟の豹(Báo)に会いました。
弟の豹は商人が交州に帰るのを手伝い、言付けを頼みました。
商人が交州に帰って話をすると、兄の彪は矢も楯もたまらず将軍に頼んで
家族に会いに行きました。

しかし彪の船は難破してしまい、臥眉山出身の夜叉国の人に助けられ
臥眉(Ngọa Mi)山まで送ってもらい、やっと弟たちに会えました。
そして弟たちを交州に連れ帰ると、豹も武官になり、妹の夜兒(Dạ Nhi)も
武官と結婚しました。妹は弓(石弓?)がうまく、
夫と一緒に戦いに行き功績を上げました。

妻は徐が黙って交州に帰ってしまったことを怒り、徐はいつも謝っていました。
妻は子どもが戦いに行くときはいつもいっしょに助け、「夫人」の称号を得ました。

ベトナム語の夜叉国の話

中国語の夜叉国

序言 Lời tựa

 桂海(クエハイ)は嶺南(リンナム) の地にあり、そこには不思議な山河、霊的な土地、勇敢な人々、神や異人の事跡がいつも存在している。

 春秋時代、戦国期の以前、古代からそう遠くない頃、南の人々の風俗は簡素なままで、記録する国史がなく、多くの話が忘れられてしまった。しかし 幸いなことには、失われていない物語は人々の口伝えによって受け継がれた。その後、両漢、三国、東西晋,唐、宋、元、明の時代を経て、嶺南志(リンナムチー)、交州廣記(ザオチャウクアンキー)、交趾略志(ザオチールックチー)などの書が書かれて伝えられ、参考になる多くの本がある。しかし、わがベトナム国は元々が未開発の地であるために、その記載は簡単で大雑把である。

 わが国は、フンヴォン(雄王)によって始まり、文明化され、吳朝、丁朝、黎朝、李朝、陳朝を経て現在に至っては規則化されているため、国家の歴史の記録は詳細を極めている。しかし、この嶺南摭怪に書かれている話は史実なのか、いつの時代に書かれたのか、完成させた人物の名前は誰か、それらすべては明らかではない。

 最初にこれを書き起こしたのは、李朝、陳朝の博識のある人である。そして、古きを好む博雅の士たちが脚色を行った。愚か者のこの私は、この本の根源を研究し、陳述し、書いた人の意図を推察して明らかにしたいのである。

 鴻龐(ホンバン)氏傳を見ると、ベトナム王朝が開かれた理由が明らかになる。夜叉(ザートア)王傳では、占城(チャンパ)の起こりをまとめている。白雉(バックチー)傳は、越裳(ビェットトゥォン)氏の事跡を記し、金龜(ズアバン)傳は安陽王(アンズォンヴォン)の歴史を記している。

 南の国で結納における最も大事な物はキンマの他にはなく、(17)それをもって、 夫妻の道義、兄弟愛の意味を示している。南越国の夏には、スイカほど貴重なものはない。この話は自身の宝物によって、主人の恩を顧みない事を語る。

 蒸餅(バインチュン)傳は親孝行を祝う。烏雷(オーロイ)傳は、淫行を戒める。

 董天王(ドンティエンブォン)は殷(アン)の敵を倒し、李翁仲(リーオンチョン)は匈奴を倒し、南に才能のある人がいる事を知らしめた。褚童子(チュドントゥ)は仙容(ティエンズン)と出会った。崔偉(トォイヴィー)は仙客(仙人)と遭遇し、善と陰を見ることができるようになった。

 道行(ダオハイン)、孔路(コンロ)の物語では、父親の仇を取ることが賞賛され、神僧たちは敵を消し去ることができるのか。

 魚精(グーティン)傳、狐精(ホーティン)傳では龍君(ロンクァン)に妖怪を追い払う力があることを示している事を忘れることはできない。徴(チュン)姉妹は忠誠を尽くし死んで、神に転生させられ、節烈の旗を高く掲げる。誰がそうでないと言えようか。傘圓(タンビェン)は神聖であり、水族をしりぞけるその美徳は明らかだ。そうではないと誰が言えよう。

 ああ、趙武(チェウブー)の後代の南詔(ナムチェウ)は国を失い復讐をした。媚娘(マンヌォン)は木の仏の母親で、干ばつの年に雨を降らせる。蘇瀝(トーリック)は龍肚(ロンド)の地の守り神だ。猖狂(スオンクアン)は栴檀の精で、祭壇を築いて拝むならば、人々に福を与え、一方で術を使う代わりに、人々を危険から救う。この事は奇妙だが不思議ではない。文章は神秘的だが、でたらめではない。多くの話は荒唐無稽の話のようだが、痕跡にはまだいくつかの証拠がある。

 善行をすすめ、悪を罰し、虚偽を廃し、真に従し、その風俗を奨励しているではないか。 考えてみるなら、晋代の書「搜神記(そうじんき)」や唐人の書「幽怪錄(ゆうかいろく)」と同様の書である。

 ああ!嶺南(リンナム)列伝は、なぜ石に彫られず、竹に刻まれず、口から口へと伝えられたのか。まだ頭の青い子どもから白髪の老人まで、誰もがこれを愛し、賞賛して言い伝えてきた。これを持って戒め、道徳や風習と結びついた。少ない利益ではまったくない。

 洪德の仲春、壬子(みずのえね)2月、この愚か者の私は古い話を書き写し、抱き、そして読んだ。字の校正は避けられないと考えて、自分の無知を忘れて修正し、それを2巻にまとめ、「嶺南摭怪(リンナムチッククアイ)列伝」と名付け、閲覧しやすいように自宅で保管した。考証を行い、脚色を行い、話を整理し、文章を校正し、言葉を吟味し、意味を精査した。後世の古きを好む君子たちで、喜んでくれる人がますように。
 ここに序言を記します。

中和節、春
洪徳23年(1492)
武瓊(ブークイン)

付録第14話 ランダム沢の神の伝説
Truyện vị thần ở chằm Lân Đàm

付録の最終話は、優しい神様の少し悲しい話です。
先生に逆らえず、死んでしまった龍神です。

 ランダムの神は元は龍神でした。昔、神はしばしば人に姿を変え、道を学ぶ先生をたずねました。先生は不思議に思い、神の居場所を探しに行って、沢の中に隠れているのを見つけました。先生はよくきびしい質問をしました。神は真実を言いました。「今年は天上で雨を降らせないことを決めました。」先生は神に雨を降らせるよう懇願しました。神はしぶしぶ聞き入れました。

 沢では気候が変動し、先生は沢に行って、神が硯の中の水を吹いて、干ばつをなくすために雨にしているのを見ました。天帝はその事が暴露されたとして、神を罰しました。神の死体は沢に浮かび、先生はそれを集めて埋葬し、その沢を龍沢(ロンダム)と名付けました。後の時代にランダムになりました。

 神は威厳があり霊験あらたかです。この寺院は、タインダム県のランダム村にあります。代々、神は中級神として称号を与えられています。

付録第13話 布擺(ボーバイ)村の神の伝説
Truyện vị thần làng Bố Bái

龍王の妻の不倫の子どもを育てて
一族が助けられる話
昔のベトナムの女性は自由ですね

 布擺(ボーバイ)村の神布擺(ボーバイ)は、炎?龍(ビェムロン)の精です。
 昔、ハーホン道のハンキェウ村には、ダン家に2人の兄弟がいて、1人はティエンミン、1人はティエンサという名前でした。2人が海に魚を捕りに行くと、木に似ている奇妙な物体がありました。長さは3尺以上、色はカラスの玉子のようで、波の上でゆらゆらと浮いています。兄弟は拾って持ち帰りました。夜になると、突然、物体の中から音が聞こえ、兄弟は怖くなって、すぐに水の流れに投げ捨て、別の船に行って寝てしまいました。

 その夜、兄弟が夢を見ると、1人の人が来て言いました。「私は東海龍王(ドンハイロンブオン)の妻で、つい炎?龍王(ビェムロンブオン)と通じてしまい、彼の子どもを産みました。私は東海龍王(ドンハイロンブオン)に知られるのをおそれて、あなたたちに託しました。どうかそれを守って大切にしてください。誰かに傷つけられることがあってはいけません。それが大きくなったら、あなたたちに福があるでしょう。」兄弟がびっくりして目を覚ますと、さっきの木が船といっしょに漂っていて、見て、運んで元に戻しました。

 家に着くと、兄弟は布擺(ボーバイ)の地に泊まって休みました。すると木が突然船から地面に飛びうつりました。兄弟は祠を建て、崇拝するために木で像を作り、それを龍君(ロンクァン)と名付けました。

 陳(チャン)朝の代に、王は従者を海に潜らせて真珠を探しました。従者は何も見つけることができず、ただダン家の子孫だけがたくさんの真珠を見つける事ができました。従者が理由を聞くと、ダン家の人は昔の話を明らかにしました。従者が王に報告すると、王は儀式と音楽、彫像の行進を行わせました。以来、たくさんの真珠が取れるようになりました。王は、神に報酬を与え、称号を神珠龍君(タンチャウロンクァン)とし、利済?霊通慧信龍君(ロイテーリントンフエティンロンクァン)の地位を授けました。

 この寺院はクインコイ県の布擺(ボーバイ)村にあります。寺院の東には、広い墓地があり、元は、昔彫像が作られた場所です。それぞれの王朝を通じて、神はいつも称号を与えられてきました。 今日に至るまで、非常に霊験あらたかです。

付録第12話 仙遊(ティェンズ)県の金の牛の話
Truyện con trâu vàng ở huyện Tiên Du

中国にある仙人の話
+金の水牛の話洪水など自然災害から来ているのでしょうか

 むかし、上古の時代、王質(ブォンチャット)という人がいて、山に薪を切りに行って、碁を打っている2人の仙童に出会いました。2人の仙童が質(チャット)にナツメの種を与えると、彼は食べて空腹を感じることがなくなり、斧を置いて碁を打つのを見ま

した。仙童は質(チャット)に言いました。「あなたの斧の柄が粉々に消えてしまったよ。」(鉄の刃は残ったが木の柄は古くなってなくなった)質(チャット)は下を向いていて、顔を上げた時には、もう仙童は見えませんでした。

 彼が家に帰って見ると、地上の世界の昔からの知り合いに会うことはもうできませんでした。(地上の時間が過ぎてしまった。)この事跡のため、人々はこの山をまさにランカー山(斧の山)、または仙遊(ティェンズ)山(仙人が遊ぶ山)と呼び、その名をとって県の名を付けました。仙遊(ティェンズ)県には、旧跡が残っています。

 仙遊(ティェンズ)山には、金の水牛の精がいて、夜中になるといつも光を放ちました。ある僧侶が錫杖(しゃくじょう)を取って水牛の額を祓うと、金の水牛が走って逃げ地面に激突し、地面が崩れ池になりました。この場所は後に觸?(フック 角がぶつかる)村と呼ばれるようになりました。

 水牛は文(蚊)河?(バンザン)の地領に走って行ったので、ここには 水牛は文(蚊)河?(バンザン)の地領に走って行ったので、ここには

付録第11話 望夫(ボンフ)山の神の話
Truyện thần núi Vọng Phu

とても有名な悲しいお話しです。
色々なバージョンがあります。

 望夫(ボンフ)山は、武昌(ブースオン)県にあり、順化(トァンホア)道の海の口にあります。むかし、森の中で木こりとして働いていた男の子と女の子のきょうだいがいました。兄は木を切っていて、手をすべらし妹の顔にぶつけてしまいました。 妹はあまりの痛さに地面に倒れてしまいました。 兄は妹が死んだと思い、怖くなって逃げて遠くに行きました。
 妹はある老人に助けられ育てられました。大人になると非常に美しくなり、昔とは見違えるようでした。老人が亡くなった時、妹は結婚しましたが、夫は自分の兄でした。兄は妻が妹であることを知らなかったのです。彼は妻のひたいに傷跡があるのを見て、その理由を聞きました。妻は言いました。「私が子どもの頃、兄について森に行って木を切りました。兄は誤って私のひたいの真ん中を切って、逃げてしまいました。兄がどこで生きているか、死んでいるかわからないのです。」
 兄は妻が自分の妹であることに気がつきました。でも、すでに夫婦として結ばれていたので、心配ではっきり言うことができず、商売に行くという口実で、出かけて二度と戻って来ませんでした。
 妹は夫が自分の兄だとは知らず、毎日待って、やがて死んで岩になってしまいました。人々はその石を望夫(ボンフ)岩と呼んでいましたが、やがて、その岩を神聖なものと見なし、崇拝する寺院を建てました。

付録第10話 鴻嶺(ホンリン)山の神の伝説
Truyện vị thần núi Hồng Lĩnh

不思議な仙女の伝説です

 鴻嶺(ホンリン)山は乂安(ゲアン)道にあります。かつて、羅山(ラソン)県で、4人の木こりが山に行って、山の中の湖で平らな岩の上で水浴びする1人の美しい人を見ました。美しい人は4人を見て、急いで湖に飛び込みました。すると、突然、大きな亀が水面に浮かんできたので、4人は恐れて、湖に取った物をたくさん残して逃げました。

 4人が1日中歩いても進まずに過ぎると、突然異人がやって来て言いました。「取った物を置いていくなら、ここから出られる。家に帰ったら山の中での話は誰にも知らせてはならない。」その後、話を漏らした人があって、その人は血を吐いて死んでしまいました。

 神宗(タントン)帝の代に、王はこの山に来て、山頂に道標を建てました。山には90の峰があります。湖を見る事ままったくできずに、波が打ち寄せる音だけを聞きました。天気はほどなく雨になりました。神に非常な霊能があるのがわかって、王家は礼拝をするよう命じました。今日でも、人々は昔の話を語ります。

 その場所は、乂安(ゲアン)省徳光?(ドゥククアン)府羅山(ラソン)県の鴻嶺(ホンリン)山で、現在は宜春(ギスアン)と干祿(カンロク)の2つの県となっています。

付録第9話 應天化育后(ウンティェンハウトゥホアトゥ)神の伝説
Truyện Ứng Thiên Hóa Dục Hậu Thần

有名な土地神(后土)さま
神様の名前は昇級によって
だんだん長くなるので困ります

 この神は、もともとは我々のベトナムの国の守り神でした。聖宗(タイントン 1023-1072)の代の神武(タンボー)元年(1069)、王は占城(チェムタイン)の国を征服に行き、ホアンハイ海の口に到着すると、突然大雨が降り、風が強くなり、遠目に山のように見える荒波が押し寄せました。王の船と兵士の船は共に、船着き場に行けずに、海岸に船を停泊させなければなりませんでした。

 その夜、夢の中で、白い上着と赤のズボンを着て、薄化粧の優雅ななりの女性が船に乗り込み、言いました。「私はこの土地の精で、魂は長い間木の上にとどまっていました。今、王が出陣する機会にあって、勝利を収めるために、志願して共に行きます。」言い終わると、どこにも姿はありませんでした。

 王は目を覚まし、大臣や顧問たちを集め、この話をしました。慧生?(フエシン)という法王がいてこう言いました。「神は木の上にいるとおっしゃいました。ですから確実に祈願すると安心でしょう。」そして親しい人を送り、海岸の山のあちこちを探させ、偶然、夢で見た神と同じで、人の形をした木を見つけて、王の船に引き上げさせ、香を焚いて祈り、その号を后土婦人(ハウトゥフーニャン)としました。

 しばらくすると、風は静かに波は穏やかになり、順調に海上を運行し、もう波風の害を恐れることはありませんでした。
 王が神を元の岸に置こうとすると、すぐにまた波風が荒れはじめました。慧生?(フエシン)は言いました。「神の意思は、岸にとどまることを望んでいません。」それで、都に戻るために、海の波が静まるよう祈り、神に乞いました。都に着いた時、安郎(アンラン)村に寺院を建てました。

 陳英宗(チャンアイントン 1276-1320)の代になって、干ばつがあり、王は祈願のために祭壇を作るよう命じました。神はお告げをするために王の夢に現れて言いました。「この寺院には句芒?(カウマン)王がいて、雨を降らす術があります。」王は目を覚まし、犠牲をささげるよう命じると、本当に大雨が降り、強い風が吹きました。王は、神を后土大婦人(ハウトゥダイフーニャン)とし、人々に功をなす神として、加封して代々報償を与えました。

 陳(チャン)朝は、神を應天后土神祗元君(ウンティェンハウトゥタンキーグェンクァン)としました。春の節句にはいつも、土牛(トーグー 土で作った牛)を寺院に持ってきて供えるのが、今でも風習となっています。

151 phố Láng Hạ (phường Láng Hạ, quận Đống Đa, Hà Nội), xưa thuộc đất làng An Lãng (huyện Quảng Đức, phủ Phụng Thiên)
写真はBáo Hànộimới